11.01.2013

Robert Fripp 1974 Interview - Part 2

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, MAY 1974
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※イギリスDERAMレーベルより68年に発売されたジャイルズ・ジャイルズ&フリップのアルバム「THE CHEERFULL INSANITY OF〜』。フリップとジャイルズ兄弟、という構成であることから、プレ・クリムゾンの重要作でもあります。タイトルやジャケからもお分かりの通り、シリアス路線をひた走るクリムゾンとは違って、この時期は茶目っ気たっぷり、ちょっとノベルティー・アルバムぽさも持った作品です。下の写真は同作のアメリカ盤ジャケ。

——ジャイルズ兄弟と一緒にライヴをしたことは?
RF:ライヴはやってない。誰もそんなオファーをする人がいなかったから。一切なかった、1度のライヴさえも。あるイタリアン・レストランで2週間の演奏活動を経験したことがあるが、それはジャイルズ・ジャイルズ&フリップとしてではない。あるシンガーのバックで「ビギン・ザ・ビギン」の伴奏をする、という仕事だった。それはジャイルズ・ジャイルズ&フリップではない。一度、テレビのショーに出演した事はあるが、あれは恐ろしい経験だった。後にアルバムを1枚作ったが、そちらはなかなか興味深い作品だ。
——『THE CHEERFULL INSANITY OF GILES, GILES AND FRIPP』のことだよね?
RF:我々のバンドにイアン・マクドナルドが参加した時に、一度トライしたことがある。それは「カラー・ミー・ポップ」という、なかなか面白いTV番組があって、それに出演したことだ。出演したバンドの中では、我々が最も良かった、と思ったし、一定の評価を得る事ができた(註:「COLOUR ME POP」は68〜69年にかけて英BBC2で放送された音楽バラエティー番組。当時英TV放送がカラーになったことを喧伝する目的もあった番組で、その後に「OLD GREY WHISTLE TEST」という新番組に受け継がれることになった。ジャイルズ・ジャイルズ&フリップが「カラー・ミー・ポップ」に出演したのは68年11月30日放送分)
——以降、音楽の仕事を沢山受けられるようになった?
RF:そうとも言えるし、そうでないとも言える。日々多くの練習を積み、作曲にも挑んでいた。君がジャイルズ・ジャイルズ&フリップのアルバムに関して、どれほど熟知してるかは知らないが。
——アルバムは聴いた事があるよ。
RF:もしあのアルバムに興味を持つギタリストがいるとすれば、B面に収録されている「SUIT No.1」を聴いてみて欲しい。もの凄く難易度の高い部分があるから。アレグロのパート、曲の冒頭1分30秒程のパートなのだが、1秒間で10音を私が奏でてる部分がある。とても難しい演奏だ。私がこれまで作曲し、演奏をした楽曲の中で、最も難しいパート、と言える部分だ。
——それほど難しいパートなのに、なぜその曲にはその演奏が必要だったのだろう?


※インタビュー中にも出てくる、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップのアルバム収録曲「SUITE NO.1」。フリップが言及しているのは、この組曲の冒頭1分半のこと。詳しくは後述されますが、この時期のフリップ先生はまだ右手首をブリッジ上の載せてピッキングしていた時期にあたります。
RF:私自身の、ギタリストとしての自己開発の一貫として必要だったんだ。それは精神的な意味ではない。もし君が気に入ってくれたら嬉しいけど、私があるレベルの演奏を達成するために、必要な演奏だったのだ。
——それはアコギ?
RF:いや、エレキギターだ。私は21歳の時に気付いたんだ——とはいえ、それほど早く気付いたというワケでもないが——音楽というものは表現を形態化するということを。実際に私は音楽を通じて自分自身を表現することが出来た。私はミュージシャンではなくて、自分がミュージシャンだ、と定義することはしない。事実、私がギターを弾き始めたころ、音感なんて全く持っていなかった。メジャー・コードとマイナー・コードの違いを言う事もできなかった。
——今でも、自分がミュージシャンだとは思ってない?
RF:思ってない。音楽に特別な興味を持っているわけではない。
——では何故音楽を演奏するの?
RF:表現方法として。ご希望であれば、私の人生のあり方というものを3つのキーワードで説明してみよう——私は「魔法」「女性」「音楽での表現」、この3つの為に人生を送っていて、3つとも私の関心の深いものでもある。しかしながらその他方では、私の中ではさほど大きなウェイトを占める関心事ではないながらも、私がギタリストである、という事実もある。殆どのギタリストは、ギターを演奏することに夢中になり、音楽には夢中にならない。それゆえ、多くのギタリストは得てしてひどく退屈な存在なのだ。事実「ベスト・ギタリスト」等と呼ばれる人は、私が考えているように、「ギタリストではなく、ミュージシャンたらんとしている」人々のことだ。
——例えば誰?



※「テクニック的には酷い」といいながら(笑)フリップ先生がジミヘンに寄せるリスペクトはいつも最大級のものです。こちらの動画は近年のロバート・フリップ・インタビュー音声(おそらくTV出演かなにかの音声を抜き出したもの、と推察されます)で、キング・クリムゾンのライヴを見に来たジミ・ヘンドリックスとフリップが会ったときのことを回想しています。69年、フリップとジミヘンが会ったその場所にはロレッタ・ランドという女性が同席していて、彼女は当時クリムゾンのドラムだったマイケル・ジャイルズの義理の妹とのこと。彼女は後に「ライヴを見た後ジミは『クリムゾンは世界で最もベストなバンドだ』とはしゃいでいた」ことをフリップに伝えると、フリップは「その言葉はすべてのミュージシャンにとって最大級の賛辞だ」と感慨にふけってます。
RF:例えばジミ・ヘンドリクスはギターのテクニック的には酷いものだ。
——「ミュージシャン」の定義は?
RF:実際に音楽が生み出される過程において、その器、容器、という位置づけだ。そんな馬鹿げた定義とか、無理なコジツケとか思わないで欲しい。魔法の力を備えた音楽もあれば、そうでない音楽というのも存在する。魔力を備えた音楽というのは、ある一定の形式を持っている——その形式とは(音楽への)取り組み方を支える強大なパワーが生み出すものだ。素晴らしいギタリストというのは概ね饒舌だ。彼らの生み出す音楽がたとえ貧相な音楽であっても、その音楽の中には多くの精神性、そして多くのパワーが漲っているものだから。
——多くの精神性と多くのパワーが漲っているギタリストって、例えば誰?
RF:例えばクラプトンの場合はどうか。私にとってクラプトンのプレイからはオリジナリティーというものを殆ど感じることが出来ない。私が言いたいのは、彼が仕事をしていた環境というものは、とても古くさい、限られた狭いエリアだったのだろう。しかし、彼もキャリアの初期においては、多くの「魔法」を持っていた。別な言い方をするならば、「音」それ自体は大して重要なポイントではない。重要なのは、「音」を通して出てくるモノの方なんだ。しかし、最初のほうで我々が話し合ったように、もしプレイヤーがよりフォーマルなエリア(註:レストランとかバー、もしくはパーティー・バンドといったような環境)での活動ばかりに従事していれば、クラプトンのようなクリシェの(ありふれた/常套的な)技法ばかりがプレイの土台になるのも致し方ないことだろう。「魔法」というのは、音にしみ込んでいる、といったようなモノではない。
——クラプトンは、これまで魔法を生み出したことはない、と考えてる?
RF:音楽の構成要素として、もしくは精神性を表現する手段として、どちらにせよ「音」というものはそれ単独では存在し得ないのだ。私は個人であると同時に、キング・クリムゾンの中では大半の楽曲を作り、演奏するグループの構成要員でもある。共感や同意が得られない夜がたった一晩あったとしても、インスピレーションという広大なフィールドで精神的な共鳴を得られなかったとしても、それでも音楽の形態というものは、興味深い仕事のひとつではある。ほんの限られたレベルでの「興味」だが。それとは反対に、ある夜、ふと「パワー」が漲っていれば、「音」がどうだ、とかそんなことも気にする必要すらなくなる。そのパワーはあらゆる壁を超越するのだ。そしてもちろん、素晴らしいと言われる演奏家、素晴らしいと言われる音楽家は、そうした「魔法」を持っているだけでなく、永遠にその火花を放ち、すばらしい表現形態を保持しているものだ。
——例えばどんな演奏家?
RF:「ほとんど完璧な構成と構造」を持った例、をいろいろ挙げることは誰でもできるだろう。さっき言った意味で言うなら、バルトークのストリング・カルテットはまさに驚愕に値する。マーラーの場合は、まだそこまでは達していないというカンジ。おそらくこれから100年間は、彼が天才だったのかどうか議論され続けることになるだろう。それからもちろんベートーヴェンは、素晴らしく完璧な構成と構造を持っている。どんな交響楽団が演奏したとしても、彼の音楽はさほど大きな差が生まれないものだ。大抵の場合は、音楽それ自体が他人の解釈を許さない程にきちんと構成されていたとしても、演奏家によっては多少は差が生じるものだ。もちろんこれは私個人の意見だが。


※クリムゾンの初代メンバーだったイアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは、最初のアルバム制作後バンドを脱退しています。この2人は70年にアルバム『MCDONALD & GILES』を制作(発表は翌年)、なかなか興味深い作品ではありますが、商業的な失敗を経て、このユニットもそれっきりとなりました。
ピート・シンフィールドは作詞家でありながら、プログレの精神的な支柱ともいえそうな存在の重要人物。72年にクリムゾンを脱退後、73年に自らアーティストとして「STILL」(写真下)をリリース。ロキシー・ミュージックをプロデュースしたり、ELPの成功に手を貸したり、という活動も有名ですが、90年代以降セリーヌ・ディオンやシェール等に楽曲を提供、大ヒットしたことで、今も悠々自適の生活を送っている模様。

——ジャイルズ・ジャイルズ&フリップが終焉を迎えたのは何故?
RF:そうだな、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップの終焉。それは私がもう耐えきれなくなったからだ。というのも、ピーター・ジャイルズがあまりにも邪魔をするものだから。もう彼とは一緒にやっていけない、と感じた。イアン・マクドナルドやマイケル・ジャイルズに「私はピーターとはもうやっていけない」と言った。もし彼らが「まだピートとやっていけるだろう」と感じていたのなら、私もその意見を尊重しただろう。でも、私には地元のボーンマスに、ベースも弾けて歌も歌える友人がいたものだから——それがグレッグ・レイクなのだが。
——ピーター・ジャイルズはどうしたの?
RF:彼は引っ越しして、音楽の道を諦めてしまった。コンピューターのオペレーターになって、今は弁護士の事務所で働いてるハズだ。法定代理人、ていうのかな。そんなワケで、キング・クリムゾンが結成されることになった。おっと、つまらない話になったな。この部分は削除して、上手い事繋いでおいてくれ。
——キング・クリムゾンの初期は、どんなカンジだったの?
RF:1年かそこら続いたところで、空中分解、だ。その翌年には2枚のアルバム、『ポセイドンのめざめ』と『リザード』を作ったが。当時に関してはこう回想できる。丁度地ならしを終えた状態、だったんだ。メル・コリンズ、ボズ・バレル、イアン・マクドナルドが参加し、1971年をスタートさせることになった。71年の夏、アルバム『アイランズ』を制作し、秋にはアメリカ・ツアーをスタートさせた。その年は、私が再び自分のピッキング・テクニックへの研鑽を積んだ時期でもある。より詳しく説明しようか?
——71年以降は、何があったの?
RF:ピート・シンフィールドが71年の終わりに脱退し、グループは72年の頭に壊れてしまった。しかしそれでもアメリカ・ツアーは続けた。新しいメンバーと共にバンドを再建したのが、72年の夏の終わりから秋にかけてのこと。そしてその再建作業が、今日まで延々と続いてるワケだ。
——ジェイミー・ミューアは今もバンドに参加してるの?
RF:いや、ジェイミーは今スコットランドのエジンバラ近くにある、チベット仏教の寺院で僧侶になった。今年の3月に彼はバンドを離れた。


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