10.29.2013

Robert Fripp 1974 Interview - Part 1

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, MAY 1974
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 ロバート・フリップ。イギリスのロック・バンド、キング・クリムゾンのリード・ギタリスト。「決して自分自身を目立たせたりしない」という彼の姿勢は、強烈な個性となっている。プレイする際には立ってパフォームせず、静かに椅子に座っている。そのことが彼に「ステージで座るギタリスト」というキャッチコピーを与える所以となった。
 現在27歳となるこのミュージシャンは、14歳の頃からギタリストとしてグループで活動していたが、18歳のときに彼の父が従事していた不動産業を手伝うことになり、ギタリストになるのを諦めようとしたことがある。しかし彼の実家近くのボーンマスにあるホテルから、週25ドルで演奏しないかというオファーを貰ったことで、状況は変わった。そして21歳のときに決心する。「プロのミュージシャンになれば、自分が欲したことのすべてを実現することができる」。そしてフリップはバンドを結成するが——本人の弁によれば——このバンドは酷い代物で、ライヴをキャンセルし、彼の友人たちにも「こないでくれ」と嘆願するハメになるほどだった。
 彼はシンガーのバック・ギタリスト等も経験した。イタリアン・レストランでビギン(註:中南米/ラテンのダンス音楽)をプレイしたが、その後ひと月にわたり新グループ結成のためのオーディションに時間を費やす。そのオーディションの合否に関しては現在も未通達のままだが、その後のちにエマーソン・レイク&パーマーのシンガーとして知られることになるグレッグ・レイク等と、キング・クリムゾンを結成することになった。



——なぜステージでは椅子に座ってるの?
ロバート・フリップ(RF):ギターなど立った状態では演奏できるものではないからだ。もちろん私にもできない。私もセミ・プロのバンドで演奏していた頃は立って演奏したが、とても心地いいとは言えないものだった。キング・クリムゾンとなってからも3回か4回、立って演奏したことがあるが、その後に言ったよ。「まるで地獄だ。こんな方法ではやってられない」と。グレッグ・レイクは「座ってちゃダメだ、地面に生えてるキノコじゃないんだから」と言ってたが、立って、(ロックンロールな)ムードを演出するなんて私の仕事ではない、と感じていたから。私のすべきことは演奏すること。そして事実、私は立って演奏ができない。ステージで演奏するなら立つのが当然、とは私もわかっていたが、私はレコーディング作業も好きではない。私が最も楽しめる瞬間は、ステージで、ライヴでプレイすることなんだ。つまり言い換えれば、(立ってステージ演奏することは)私が最も忌み嫌うことだ。


※写真は69年4月11日、ロンドンのライシアムでのライヴ(クリムゾンがライヴ・デビューしたのはこの2日前のことでした)。立ってギターをプレイするフリップの写真! とはいえ基本的にクラシカル・グリップでプレイするフリップですから、座ったほうがいいに決まってますよね。
——座っているあなたを見ている人々は、そのムードを感じてると思う?
RF:そんなのは私の知ったことではない。ステージで演奏している側の視点で言えば、最も矛盾を感じていることは、私が思ってもいないようなステージの感想を聞かされることだ。たしかに誰とも同じことはやっていない、という面に由来するのだろうが、そんなことも、私の信念をより確固たるものとさせる。私は自分自身である、という信念を。
——初めてギターを弾いたのは、いつ?
RF:ギターを弾き始めたのは、ちょうど今から16年前のクリスマスだった。ギターはMANGUIN FREREのアコースティック。酷いモノだった。
——こういう質問、つまらないかな?
RF:どんな酷いモノだったか、教えてあげよう。15フレットより上のポジションでは、押弦がまったく不可能だった。 ギタリストからあらゆる自由を奪うような楽器だったが、おかげで無駄に筋力はついたんじゃないかな。でもそのギターを演奏できるようになるまでには何年も費やすことになった、そんなアコースティック・ギターだ。1年後、使用ギターをROSETTIに変更した。こちらも本当にチープで酷いギターだったが、ピックアップがついていた。しかし私はアンプを持っていなかったから、ピックアップはいつしか壊れて使えなくなってしまった。いまだに私は楽器との闘争には、めっぽう弱いが。


※ヘフナーPRESIDENTは50年代から数多くの仕様違いモデルが存在しますが、フリップが入手したと思わしきモデルは時期的に2PU仕様のものと推察されます。ドイツ製ですが、英セルマーが輸入販売したモデルにのみ「PRESIDENT」と名前がつけられています。上の写真はセルマーが発行した64年のヘフナー製品カタログ。
——初めてエレキギターを入手したのはいつ?
RF:14歳の頃だ。ギターを初めて2年半経過して、ヘフナーのPRESIDENTを購入した。ピックアップが2つ搭載されていて、同時にアンプも購入した。8インチのスピーカーがついた6ワットのアンプ。これが私にとって最初のエレクトリックギターへのチャレンジだった。
——一番最初にバンドへ参加したのは、いつ?
RF:14歳の終わりの頃に、あるバンドに参加した。とても酷いバンドだった。15〜16の頃、私は入学試験を受けることにしたので、それでバンドは終わりになった。入試が終わって再び私はギターを手に取るようになったが、15歳のときにクロス・ピッキングに特化したギタープレイを目指すようになり、研究を始めるようになった。クロス・ピッキング、つまり右手の修練のことだ。些細な歴史の一部ではあるが、今の私のプレイを少しだけ興味深くさせる話だろう? もちろん、今後も修練すべきポイントはたくさんあるが。
——クロス・ピッキングというテクニックについて、詳しく教えてくれる?
RF:ほとんどのギタリストは、まるで腕が1本しかないかのような仮定の上で演奏する。しかし、私は「腕は2本ある」という前提で演奏する。最も重要な点は、それらの2本の腕には、それぞれに指がある、ということだ。もう12年も、私はその点に特に重きを置いて演奏力を開発してきた。でも、我々はまたそのポイントに再び着目する必要があるだろう。
——ほかに参加したバンドってある?
RF:17歳の終わり頃に私はあるバンドに参加したが、かなり貧弱な、弱々しいバンドだった。しかしそれは当時の、その場所の風潮を反映したバンドだった。


※最近フリップ先生のブログにて「こんな写真をみつけた」と掲載された、ギブソンES345を持つフリップの写真。おそらくこの4人組が、イタリアン・レストランでビギンとかを演奏していたバンドと思われます(追記:この写真は65年「リーグ・オブ・ジェントルメン」というグループを名乗っていた時代で、左からフリップ、ヴァレンティノ・リチニオ、スタンリー・レヴィ、ゴードン・ハスケル、とのご指摘をいただきました)。
——それらのバンドでは、何か録音したりは?
RF:ない。そのバンドのために私はギブソンのステレオ・ギター(註:ギブソンのES-345、ステレオ仕様)とステレオ・アンプを購入した。それからセルマーの50ワット・アンプも。これはギターの電子回路を研究するための、私にとって最初の契機となったものだね。ギブソンのステレオ・ギターは今まで私が演奏したギターの中でも、最もすばらしいギターのひとつだと思っているが、それほど頻繁に使用したいギターではない。というのも、サウンドがそれほどストロングだとは思えないからだ。今私が使っているレスポールは「ブラック・ビッチ」だが、ギブソン・ステレオは「レディー」、そう思うね(註:もちろんこの表現はレスポール・カスタムが「ブラック・ビューティー」というニックネームを持つことに由来している)
——そのバンドが終わってしまってからは、何を?
RF:そのバンドが終焉を迎えるころ、18歳だった。プロフェッショナルな道でギターをプレイするのを諦めよう、グループで演奏活動するのをやめようと思った。自分の仕事に集中するために。
——それはどんな仕事?
RF:住宅を販売することだ。私の父が不動産業をやってて、それを手伝った。だが、とてもいいフラメンコ・ギターを入手したことがきっかけになって、フィンガースタイルの演奏に挑んでみることにした。ひと月ほど後、ボーンマスにあるジューイッシュ・ホテルから、ラピュンゼルというハウス・バンドの中で、ギターを弾かないか、というオファーを貰った。そしてその環境で演奏することになった。
——そのときは、どんな音楽を?
RF:フォクストロット(註:社交ダンスの音楽のジャンルのひとつ)、タンゴ、ワルツ、即興演奏、バスキング(チンドン屋のような演奏スタイル)、ツイスト、その他いろいろ。これはチャレンジなのだから、なんでも演ろう、と決めていた。また、一週間で10ポンド稼ぐ、という経験にもなった。そこで私は3年間働いて、その稼ぎは大学(註:ここでフリップは「COLLEGE」と発言していますが、日本で使われるような「大学」の意味ではなく、専門学校、という意味に近い言葉です。詳しくは後ほどインタビューでも触れています)への入学資金に使った。
——でもその演奏活動はやめちゃったんだ?
RF:ああ。精神的に啓発されるようなことは一切ない仕事だったから。私にとって、人生というものに対する回答とは、不動産売買の仕事でもたらされることはなく、むしろオークション・ハウスに行くことのほうが有益だ、と考えた。少なくとも当時はそう思っていた。
——学校へは?
RF:Aレベル(註:イギリスの公立大学に入学するための統一試験で、合格すれば全てのイギリス、もしくは世界中の大学への入学に際し、資格として認められる単位。Aレベルでトップクラスの成績を上げると、医学のような高度に専門的で競争の激しい学位コースや、オクスフォード、ケンブリッジ、インペリアル・カレッジ、ロンドン大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどの最高峰の大学への入学が可能になる)を取得し、ロンドンの大学に行こうと思ってた。そして、不動産管理の学位を取ろうと。それで、父親のもとを離れて、5年ほど勉強して、測量等のすべての必要なスキルに精通して、父の仕事の良きパートナーとして実家に戻ろう、と考えていた。ああ、まったく馬鹿げたことだが。
——その時点でギターは完全に諦めた?
RF:ああ、5〜6ヶ月ほどは、ね。家を売る仕事に集中しようと思ったので。2週間のコースだったが、その途中で単位取得のチャンスがあって、取得しようと考えていた3つの学位のうち2つを取得してしまった——とても寛大な処置でね——自分にとって必要な学位はそれで十分だったので、その学校はその時点でやめてしまった。
——で、音楽の道へ戻った?
RF:(音楽に)恋をしてしまったのでね。まったく、自分でもオカシなことになったものだ。そういうことが私の人生に、何度か繰り返しおこってしまうのだが。で、20から21歳の間に、プロのミュージシャンになろうと決心した。それは私が人生の中でやりたいと思ったことをすべて可能にする職業だったからだ。
——人生の中でやりたいことって?
RF:ああ、精神面での開発、それからパーソナリティーの面の開発。この場合のパーソナリティーとは、決してスターになるなんていう意味ではなく、「人格」を開発する、という意味。また別の面で、生活ができる収入を稼ぐに十分で、世界を見ることができて、人々と会うことができる、そんな職業だ。実際に私は、もしプロのミュージシャンになれなければ、「私の人生には何も存在しない、私に何ももたらさない」と考えてたから。
——正しい選択ができた、と?
RF:ああ、正解だった。希望を持つ若い人間にとっては、最高の教養が得られる授業だね。と同時に、他の要素も絡んでくるものだ。その後2年、私は仕事が一切なかったので、「これはいい経験なのだ」と理解できても、やはり決して楽しいものではなかった。昔の思い出は、きらびやかに見えるものだけどね。
——プロのミュージシャンになろうと決心して、その後参加したバンドは?
RF:プロになる決意をして、あるバンドを結成した。全くもって最悪の、信じられないほどに最悪の音を奏でるバンドだった。そのバンドを始めるやいなや、近所でいくつかの演奏の場を与えられ始めて、私もささやかな評価を与えられることにはなったが、私を知っている人々にそのバンドを見られたくなかったので、ライヴをいくつもキャンセルしたりした。
——そんなに良くなかったの?
RF:ああ、本当に酷いものだ。
——そのバンドの名前は?
RF:クリメイション(CREMATION)。ちょうど私が21になる誕生日の頃だが、その日は私にとって人生最良の日であると同時に、大きな変化に迫られた日でもある。
——なぜ?
RF:今までの人生と、全く違った世界を歩み始めたから。


※ジャイルズ・ジャイルズ&フリップの宣材用アーティスト写真2枚。んー、何考えてるのかよくわからない写真ですよね(笑)。
——やっと大人になれた、という意味?
RF:大人になれたのは、私が25の時だろうな。それよりも4年前、67年の春のことだ。私の誕生日は5月16日。ボーンマスで既に有名だったリズム・セクションのジャイルズ・ブラザーズ——ドラムのマイケル・ジャイルズと、ベースのピーター・ジャイルズ——彼らが歌えるオルガン奏者を探している、と耳に挟んだ。私は彼らと1ヶ月リハーサルを繰り返したが、その後マイケル・ジャイルズにこう言ったんだ。「あー、あまり事を急いてアクセクと作業するのはやめよう」と。その当時自分が仕事を持っていたかどうかは覚えていないが。
——そのバンドが、後にジャイルズ・ジャイルズ&フリップになった、と?
RF:67年の秋、我々は皆でロンドンに上京した。ロンドンに私の友人がいて、彼はアコーディオン奏者なのだが、彼が私たちにある仕事を持ってきてくれたから。それはあるイタリア人シンガーのバッキングを担当することだった。しかしながら、私がその友人に会ったのはそれが最後となってしまった。彼は3人のチンピラに襲われ、ボロボロに切り裂かれ、病院から出られないということになってしまったから。ともかく我々はトリオとしてその仕事の契約を交わしたんだが、そのエージェントは誠意もまったくない、我々を騙す気まんまんの詐欺師だったんだ。どうやったらそんな不誠実な輩を説き伏せられるか、なんてそれまで考えたこともなかったが、とりあえず私はそのエージェントに手紙を書き、お前がいかに不誠実であるか、と提示してみた。驚くべきことに、その週の終わりには、我々はその仕事を全部失ったね。
——決して嬉しい経験ではないね。
RF:その後1年間仕事はまったくなかった。いや、その後1年半、だったかな。


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4 comments:

  1. はじめまして。
    たまたま見つけたので素晴らしい記事の翻訳を楽しませていただいております。

    ちなみに上から二番目のマーキーの画像はボズ・バレルが写り込んでいる上に
    フリップの髪型も71年当時っぽいので、71年の夏頃のマーキーの楽屋だと思います。

    その下の「こんな写真を見つけた」とフリップが公開した画像は、
    1965年ザ・リーグ・オブ・ジェントルメンの時代で左から
    フリップ、ヴァレンティノ・リチニオ(リーダー)、スタンリー・レヴィ、ゴードン・ハスケル。

    フリップがジャイルズ兄弟と仕事したGGF以外の仕事とは
    アコーディオン奏者ダグラス・ワードの仕事と言う事です。
    歌はファビュラス・コードヴォクスというグループ。
    1967年10月17-24日、GGFがダグラス・ワードというアコーディオン奏者と組み
    ダグラス・ワード・クルテットとして仕事をしたそうです。
    フリップは63-64年の間、ダグラスと組んでバックバンドの仕事の経験があるので
    組んだばかりで仕事の無かったジャイルズ兄弟と小銭稼ぎにいったのでしょうね。
    ただしダグラスが交通事故にあい、その仕事はすぐ終わってしまったようです。
    このほかにもフリップはマジェスティック・ダンス・オーケストラなど
    箱バンっぽい仕事をいくつかしていたようです。

    ビギン・ザ・ビギンを伴奏していたと言うのは初耳です。
    とても貴重なインタビューですね。

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  2. 大変失礼しました。
    コチラの記事ですと、ダグラスは教われて怪我をしたとかかれていますね。

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  3. はじめまして。コメント&ご指摘ありがとうございました。(このインタビュー、確か以前はdgmlive.comにあったと思うので、ご覧になってる方は多いと思われます) いずれにせよ、写真のキャプション修正させていただきます。感謝いたします。

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