6.10.2013

Mick Ronson Interview - Part 1

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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 ミック・ロンソン。1946年、英国北東部の小さな都市ハル(註:正式な地名はKINGSTON UPON HULL)で生まれた彼は、若くして音楽の道を歩み始めた。アコーディオン、ピアノ、バイオリン等を経て、遂にギターの魅力に目覚める。後に彼はデヴィッド・ボウイのバック・バンド、スパイダース・フロム・マースの一員として頂点を極めたが、74年のバンド解散後は、アルバム『十番街の殺人』を引っさげソロ・キャリアをスタートさせた。

 1993年4月30日、ミックはガンで亡くなった。しかし彼のプレイは、世代を越えて多くのギタリストに影響を与え続けている。また、彼がデヴィッド・ボウイの作品群で残した楽器に対する——レスポールとマーシャルの組み合わせ、といったような——基本的なアプローチは、今もってロック・ギターにおけるテイスト/スタイルの道しるべとなっている。
 彼とのインタビューも、当初は彼がシャイな人物に思えた。しかし時間と共に、我々は徐々に打ち解けていった。インタビューも後半の方になると、「今、こんなカンジの曲を録音してるんだ」と言って、何曲かを実際に演奏してくれたりもした。



——最初の頃の話から、聞いてもいいかな? ギタリストを目指したきっかけと、どうやってギタリストになったか。
ミック・ロンソン(MR):ギターを弾き始めたのは、ホントに小さなころ。ギターの前はピアノもやってたんだ。それからアコーディオンも。僕が3歳の頃だったと思うけど、僕の家の隣に住んでいた人から、ちっちゃなアコーディオンを貰ってね。4歳の頃にチャップリンの『ライムライト』って映画を見て、その音楽にすごく感銘を受けて、音楽の演奏に夢中になった、ってことをよく覚えてるね。
——へー、ギターを始める前に、アコーディオンをやってたんだ。
MR:その後、僕の両親が僕にピアノを買ってくれる、ってことになった。僕の5歳の誕生日にね。それでピアノを始めた。でも僕も小さかったし、僕にピアノを教えてくれる先生もいなかったんだ。ピアノの先生達はみな「彼はまだ小さ過ぎる。こんな小さな手じゃピアノは弾けない」とかなんとか言ってたね。だからその頃、ピアノを誰かから教わることはなかったんだ。
——どうやってピアノを練習してたの?
MR:誰か(先生が)いないかな、って考えるだけで2〜3年は過ぎてしまった。家には月謝を払うお金だってなかったし。だから専門の先生とかにも巡り会えず、誰からも何も教わらないまま時間が過ぎていったね。よくあるでしょ、何ができるかをモンモンと考えてるだけで時が経って、結局何もしないのと同じだった、みたいな。
——結局どのくらいの間ピアノを?
MR:11歳くらいまではピアノを弾いてたよ。11歳の頃にはバイオリン、それからリコーダー(縦笛)を始めた。バイオインを演奏するのは楽しかったよ。すごく好きになった。でも13か14になる頃、急に嫌気がさした。というのも、バイオリンケースを持って歩いてると、周囲から馬鹿にされたんだよ。ほら、男子ってのは大きくなれば皆オートバイとかそういう世界に夢中になるでしょ。そんなカンジで僕もその頃はちょっと音楽にウンザリするようになってしまった。そんな事よりも街に繰り出して、ボーリング場行って、みたいな、そういう遊びに夢中になりだす年頃だからね。おかしな話だけど(笑)。13〜14の頃、僕は知り合いに小銭を渡して、僕のバイオリンケースを代わりに持ってもらってたりしてたよ。僕が住んでた街は、もの凄く荒っぽい場所でもあったから。
——出身は?
MR:ヨークシャーのハルっていう所。ホントに荒っぽいバカげた連中が沢山いた所。誰もが理由なくケンカを始めたり、他の連中もそれを見るのが楽しみだったり、ていうような場所でね。そういえば今年のクリスマスにハルに帰省したんだけど、車を運転して、夜の10時かそこら、っていう時間に街に着いて、そこで最初に思いついたことは「あー、この街は(以前と)何もかわっちゃいない」てことだったね。楽しい帰省だったよ。
——ハルの「音楽シーン」っていうのは、どんなものだった?
MR:奇妙に思うだろうけど、僕の出身地のハルはイギリス北部の小さな街で、本当に「何もない」街なんだ。ワーキングクラスの為の荒っぽいクラブとか、客が酒を飲みながらビンゴゲームをやって大騒ぎするような店とか、そんな場しかない、っていう。もっと以前であれば、イギリスの北部にももっと良い「音楽シーン」があったんだけど、すっかり廃れてしまって。バンドをやってたような連中は、この街では仕事になるような場所がない、って気付いてたね。バンドマンは機材とか、機材車を揃えなきゃいけないし、支払いのために、何らかの別の仕事にも就く必要があるワケで。だからバンドマンはみな実際にライヴをやるその前の、仕事探しのほうが本当の「戦い」だったんだ(笑)。機材とか、機材車用のバンは、RAF(ROYAL AIR FORCE/英空軍)のキャンプとか、ワーキングクラス向けのクラブにいけば大抵の物は揃ったんだけど、支払いは大変だったよ。ライヴをやればやるほど、機材も機材車もどこかしらすぐガタが出るからね。でも、そんな環境でも演奏するのはやはり最高だった。いい経験をしたよ。いろんなタイプの観客を相手に、どんなふうに演奏すべきかとか、いい勉強になった。とはいえ、殆どの観客は皆ただのヨッパライなんだけどね(笑)。イギリスの、特に北部の人間は皆我を忘れてとにかく大量に酒を飲むからね。毎晩クラブに繰り出して、酔っぱらって、たまにおかしくなったりして、皆でシンガロング(※SING-ALONG:ヨーロッパの労働者階級の人々が、皆で肩を寄せ合ってワッサワッサと体を揺らしながら歌う、荒っぽいスタイルのワークソングを指す言葉ですが、80年代以降のOIパンク/ハードコア・パンク等でこのスタイルを取り入れたものが多いことで馴染みがある言葉かもしれません。というよりも、この伝統的なワーキングクラス文化を今の時代で目の当たりにする例としては、欧州のサッカーの応援歌のほうが日本でもよく知られるところだと思われます)で大騒ぎして、そんなのが大好きな人ばかりだから。


※ROSETTI LUCKY 7:ロゼッティはオランダのEGMOND社によるイギリス輸出用ブランドで、楽器自体はオランダ製。同ブランドはポール・マッカートニーがビートルズのメジャー・デビュー前に使用した「SOLID 7」という楽器で有名。LUCKY 7はフローティングPUをフロント位置にマウントしたアーチトップ。
——若い頃、ハルでは音楽を誰かから学ぶっていう機会はなかった?
MR:若い人達が「音楽を演奏したい」なんて言い出すだけで、奇妙に思われるような土地柄だよ。「ロックが好き」とか言おうものなら、街で知らない人からも呼び止められて、いきなり路上で殴られて、とかね。だから僕も、バイオリンの演奏をやめてしまったんだ。やめた他の理由に「バイオリンの弓」ってのもあった。バイオリンを教えてくれてたある人がいたんだけど、彼には悪いクセがあってね。教えた通りに運指しないのを見つけようものなら、怒り狂って僕の指を全部グルグル巻きにしてしまうんだ。ホント、嫌気がさしたね。
——まったく理解できない話だね(笑)。
MR:とにかく音楽の演奏はスッパリやめた。14か15の頃だね。1年間くらいは音楽と無縁だった。16か17の頃に、ギターを買うまでは、ね。
——どんなギターだったの?
MR:ロゼッティの「LUCKY 7」っていうギター。色は白。なかなか見た目はカッコいいギターだったよ。すっごく弦高は高かったけど(親指と人差し指で、どれだけ弦高があったか、を示しながら)。でも、生まれて初めてのエレキギターだったし、楽しかったよ。値段は14ポンド。毎週5シリングずつ分割で支払いをした(註:20シリング=1ポンドなので、56回の分割払い、という計算になる)
——エレキギターを入手して、どこかのバンドの一員になろうと思った?
MR:ギターを買ってそれほど間もない頃に、あるグループ(THE MARINERS)のギタリストとして演奏することになったんだ。楽器屋なんかにタムロしてて、顔見知りになったメンバー達がやってたバンドでね。彼らがどれだけ演奏ができるか、なんてこともまったく考えずに、とにかくバンドってものを皆で始めてみた。皆でアンプを用意したり、他の機材も皆で買ったり、なんてカンジで。


※WATKINS COPICAT:イギリス製のテープエコー・マシンとして最も有名だったのがワトキンス(WEM社)のCOPICAT。モデルチェンジを繰り返したロングセラー製品なのでいくつものバリエーションがあるが、写真の広告に写っているのは1959年仕様。
——他のメンバー、ミュージシャン達と出会えたのは、やっぱり嬉しかったでしょう?
MR:少なくとも僕にとっては、それまでの人生で最も素晴らしい瞬間だったね。どうやって演奏するかを学ぶ機会でもあった。アンプのスイッチをオンにするだけで、アンプから音が聴こえてくるだけで、本当にスリルを感じたんだよ。メンバーのひとりがエコー・ユニットを持ってて、そのエコー・マシンはワトキンスのCOPICATだったんだけど、それはもう凄まじい感動を覚えたね。そのバンドで最初に演奏した曲は「SHAZAM」(註:シャドウズの63年発表曲/下記動画参照)。あの曲、知ってる? 曲名って「SHAZAM」で合ってたよね? たしか「ダーン・ダーン・ダダンダーン・ダ・ダーン」っていう(リフを口ずさむ)…… ホントにスリリングだったのをよく覚えてるよ。スンゴク興奮した。うまく口で説明できないけど……
——いや、わかるよ。
MR:うまく編集しといてね。うん、とにかくリアルな興奮。初めて演奏したときの、本物の興奮を覚えてるよ。
——その最初のバンドでは、どのくらい活動を続けたの?
MR:正確には覚えてないな。そんなに長くはない。9ヶ月かそこら。パブで1〜2回のライヴをやったんだけど、バンドを始めたときはベースもいなかったし。ギター2人と、シンガーとドラム。ずっとベースはナシでやってた。でもポップ・ソングを演奏する時、ベースがいるかどうかなんてことは大した問題ではない、てカンジだった。誰ひとりとして「ベースがいない。困ったなあ」なんて決して感じてなかったね(笑)。ドラムキットも、スネアと、バスドラと、シンバル1つと、タム1つ。それと、小さなアンプ2つ、スピーカー2つ。もし、演奏者がもっと多い場合は、同じその小さなアンプに皆プラグインしてた。だから、後になってバンドにベース・プレイヤーが参加するようになってからは、もっと大きなアンプが必要だ、ってことになって、VOXのAC30を2台購入した。ヴォーカル・マイクもそこ(AC30)にプラグインしてたね。結局、ヴォーカル、ベース、ギター2本、それらを全部、2台のAC30で鳴らしてた。ちょっと想像できないんだけど、前にいた観客にはどんなふうに聴こえてたんだろうね。ステージの上では結構酷い音だったよ(笑)。ただ爆音、ていうだけ。そのくらいしか覚えてないなあ。


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