6.27.2013

Mick Ronson Interview - Part 7

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——あなたのソングライティングに関してだけど、ボウイから影響を受けたとは思う?
MR:ボウイと一緒にやってた時は、僕は曲を書かなかった。その頃は作曲に興味がなかったから。
——でもボウイの曲の中で、プロデューサーだったり、アレンジャーとしてもクレジットされることがあったよね?
MR:うん、アレンジとか。でも作曲は、全部ボウイの仕事。
——それがフラストレーションになったりしなかった?
MR:いや全然。僕は他の人が書いた曲を演奏するだけ。他の人の曲を演奏するのが大好きなんだ。
——自作曲を演奏するよりも?
MR:もちろん自作曲も好きだけど(笑)。
——こんな曲はどう?ってオファーしてみたことはないの?
MR:ないね。それほど作曲することに没頭したってことがないから。人の書いた曲を演奏するのを、エンジョイしてたんだ。そのほうが簡単だし。だから自作曲にこだわったことがない。ファースト・アルバム「十番街の殺人」を作るまで、作曲なんてのはやったこともなかった。あれが初めての作曲体験なんだ。酷いナマケモノなんで、なるべく沢山の時間をダラダラと過ごしたいタイプだし、椅子に座ってじっくり作曲しようなんて考えた事もなかった。女の子の側で一緒に遊ぶってのならじっくり座るけどね(笑)。まあいずれにせよ、じっくり座って作曲、なんて僕には向かない仕事だね。
——その習性を、変えてみよう、と思ったことは?
※右上の写真は74年の米音楽雑誌「CREEM」より。同誌74年の読者人気投票で、ミック・ロンソンはベスト・ギタリスト部門で2位になった。ちなみにこの時の1位はジミー・ペイジ、3位はエリック・クラプトンだった。
MR:街で何かを観察してみるとか、そういうのが好きな人は見たものをすぐにメモしたりするんだろうね。でも僕はやったこともなかったし、僕には簡単なことじゃない。今は周囲を観察するようになったんで、何か面白いことがあればメモに記したり、とやり始めてみたところだけど。きっかけは、誰かが何か言った時に「オッ、そりゃすごい、メモメモ……」って急に思いついたんだけどね。今までは「メモらなきゃ」とかそんなのを気にするギタープレイヤーなんているわけねえだろ、って思ってたんだけど。
——それはやっぱり、ボウイとかディランのような人達と仕事してきたから、なのかな?
MR:作詞なんて興味もなかったし、本を読むのだって好きじゃない。そういうことだよ。本なんて今までの人生で2冊くらいしか読んだ事がない。ひとつは「トム・ソーヤーの冒険」で、もう1冊が何だったかは忘れたけど。とにかく読書は嫌い。何も読まない。だから言葉を使う方法、ってのが元来苦手なんだ。言葉で表す、なんてしたこともない——言葉よりも、音楽で表現することの方が沢山自分を伝えられるし、それが僕に出来る唯一の表現方法なんだ。でも今、言葉でも自分を表現でしてみたい、と思い始めたところ。今ちょうど勉強を始めたところだよ。他の人達が既に学んで知っていることを、ね。だから作曲に関しては、今までと違う方法で、よりいい曲が描けるようにならないか、試してみようか、と思ってる。
——ソングライターとしてのキャリアも積んでみよう、と?
MR:いやいや、ちょっとそっちの方面にも旅してみる、ってだけ。自分に何が出来るか勉強してみてるだけ。でも自分に何でも出来ると妄信するようにはなりたくないし、いつも色んな本を持ち歩いてみて、誰かが言った興味深い部分を、ホントにチョットだけ書き留めてみる、っていうだけ。あと、テープレコーダーを持ち歩いて、色んなところで誰かが言ったものを録音してみたりとか。そんなことばっかりやってるのも好きじゃないんだけれど、たまに、オッいいね、これは残しておきたい、と思ったらいつでもメモできるように、ね。いままでよりはメチャメチャ忙しくなったけど、基本的に僕は怠け者なんで、そんなに仕事のことばかりバリバリ考えたくはなかったんだけどな。でも自分で学んでみたい、と思ってしまったのも事実で、じゃあ実際に自分でやるしかねえよな、と(笑)。楽しんでやってるし、いいライターになれたら嬉しいよね。僕がやりたいことってのは、違う仕事をいろいろやってみたいってこと、ひとりで朝起きられるようになること、明日も朝が来るだろうって期待すること。
——いま、期待してることは?
MR:本心をいえば…… スタジオワークをもっとエンジョイしたいね。スタジオの中にいるのが大好きなんだ。またスタジオで仕事できるのを期待している。スタジオ中毒とかそんなことではないんだけど。スタジオで仕事があると、いつも早く行くようにしてる。30分は早く着いちゃうね。昨晩は夜の7時からスタジオ入りだったんだけど、それまでの時間、日中がもう長く感じちゃってイライラしたね。スタジオにいるのが好きだし、そこで仕事するのがまた楽しいんだ。結局僕は、その「楽しい」ことをやりたい、っていうだけなんだよね。スタジオに向かって移動する、それさえ大好きだもんね。
——あなたのソロ・アルバムでは、エレキギターだけじゃなく、アコギとかキーボードとか、いろんな楽器を演奏してるよね。
MR:たしかにいろんな楽器を演奏してる。そんなに上手くないけどね。でも自分で演った。どんな音にするか、自分で取捨選択するわけだから、どんどん難しい作業にはなるんだけど。スタジオで、卓の後ろに座るのも好きなんだけど、スタジオのブースに出て行くのはもっと好きだし、ギターの弦と戯れるのはもっともっと好き。そういうひとつひとつの小さな作業を何もかもやるっていうのが大好きなんだ。ひとつの業務だけを全うする、てのができないんだ。だから、少しずつだけど、徐々に自分を開発していってる、っていうカンジだね。僕はいろんなことを学ぶっていうのを止めることができない。それは一生そのままだろうね。でも、それでいいと思ってる。
——ジェフ・ベックとセッションしたよね。あれはどうだった?
MR:オー、すっごく楽しかったよ。本当に楽しかった。ある時僕等のライヴに彼がやって来たんで、僕がデヴィッドに言ったんだ。「一緒に演奏しないか、ってジェフに聞いてみようよ。簡単なセッションで」ってね。で、ジェフにそう聞いてみる事にした。実はその日はジェフの誕生日だったんで、ジェフはバーで何杯か飲んでた。面白いよね。ジェフは「ああいいよ。演奏するの好きだし」って。最高だろ(註:発言が正しければ、このやりとりがあったのは73年6月24日、英クロイドンのフェアフィールド・ホールでのライヴ会場と思われる。実際にセッションをやったのは73年7月3日、英ハマースミス・オデオンでのジギー・スターダスト引退ライヴの場だった)
——ジェフ・ベックからは、影響を受けた?
MR:ああ、そりゃもちろん。彼は僕のヒーローだから。
——他に、強く影響を受けたのは?
MR:沢山いるんだけどね。キース・リチャーズはいつだって大好きだ。彼のプレイが好きなんだ。それから、ジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンも。その2人は一段下がる、ってカンジだけど。
——今までスケール練習とか、ランニングノートとか、やったことある?
MR:いやいや(笑)、いつも僕は同じようなフレーズを適当に繰り返してるだけ(笑)。たまに、やっときゃ良かったなって思うこともあるけど。きっと僕は、聞いたことあるような同じようなフレーズを何度も何度も繰り返す、っていう方法だけで終わるんだろうね。でも聴こえ方は毎回変わるハズだけど。
——練習は、しないタイプ?
MR:しないね。(部屋の隅にある、レスポールがしまい込まれたギターケースを指差して)ギターはケースにしまいっぱなし。明日スタジオでケースを開けるまで、ギターはあのままだろうね。いや、でも少しは練習することもあるな。でも覚えるのは遅いんだ。そういうのを毎日毎日積み重ねるのは僕には無理。考えるのも無理。まあ少しは練習しようとは思ってるんだけど。ギタリストとしての僕を支えてるのは、人と会ってセッションすることだから。誰かの演奏を見るだけで、すごく僕の参考書になる。それが僕の「練習方法」だね。いい練習になってるよ。
——今、いろんな面で上手くいってる、と感じる?
MR:いままでと違うタイプのソングライティングをすること、今まで聞いた事のなかった新しい音楽に挑戦すること、どれもこれも、最近急にやり始めたばっかり、っていうものだ。そういう新しいものを吸収することで、僕もリフレッシュできるんだ。今まで演奏したこともないものを、どうやって演奏するか勉強してみる。いままでと違う演奏方法でね。凄いリフレッシュになるんだよ。かといって、今まで既に僕がやってきたものを全部捨てるっていうワケじゃないんだ。それはそれで、価値があるものばかりだから。
——あなたのギター・プレイに関して、何か聞き忘れたことってあるかな?
MR:いや、バッチリじゃないかな。なにかあれば、6ヶ月以内にまた質問してよ。……どう? 最後にそう書いとけば、上手く「オチ」になるんじゃない?

Interview by Steven Rosen in 1976. / Article written in 1976, revised in 2013.
Translated by Tats Ohisa. ©2013 Steven Rosen / Buzz the Fuzz

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 上手いオチかどうかはともかく(笑)インタビューは以上になります。とても万人にとってタメになる文章とは思えませんが、もしお楽しみいただければ、幸いです。余談ですが、このインタビューはローゼン氏がミック・ロンソンとサンタモニカの西にある、トロピカーナというちょっとデカいモーテルのレストランで、ランチを食べながら行なわれたインタビューです。同じ表現、同じ話題が何度か繰り返されてしまうのは、メシを食いながら行なったQ&Aを、そのまま(取材テープに録音されたそのまま)書き起こしているからです。文章としてはやや読み辛い点があるのは承知の上ですが、そのまま再現しました。ご容赦いただければと思います。
 文末にサンクス・クレジットを入れてませんが、もちろんこのインタビュー原稿をライセンスしてくれたスティーヴ・ローゼン氏に感謝を。そして今から37年も前の古くさい文献で、しかもやたら長文で、拙い翻訳と註釈で、という3重苦のインタビュー文ながら、最後までおつき合い下さって完読していただいた方には、最大限の感謝を。
 

6.24.2013

Mick Ronson Interview - Part 6

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——ボウイと一緒に演ってたころって、他のミュージシャン達とセッションするような機会はあった?
MR:いや、なかったね。他のミュージシャンとかアーティストなんかとジャムる機会はまったくなかった。一度も。そういうのって、ミュージシャンにとってはやっぱり珍しいことなのかな?
——ミュージシャンなら、いつでもいろんな人とセッションするのが好きそうなものだけど。
MR:アメリカではそうなのかもしれない。イギリスではそんなでもないんだよね。理由はよく判らないけど。イギリスではそういう機会自体があまりないんだ。イギリスでも、そういうカンジ(セッション文化)になればいいのにね。どっかに1つか2つ、機材が常備されてて、ミュージシャンが皆集まって、自由にプラグインできて、色んなミュージシャンと気軽にセッションできるような場が、ね。そうなったら素晴らしいのに。
——アメリカのミュージシャンと、イギリスのミュージシャンでは、やっぱり違いがある?
MR:あー、自分の経験からしか答えられないけど、そういうセッションの機会とかを僕自身がそんなに経験してないから、セッションに参加するミュージシャン達がどんなアプローチをするのか、イギリスとアメリカでどう違うのか、は判らないんだ。僕個人としては「全然違うなあ」と感じたけれど、何がどのくらい違うか、は判らない。多面的に検証したわけでもないし。もし僕がアメリカを縦断してれば、言えることもいろいろあるんだろうけど。でも、概してアプローチがどう違うか、とかは大差ないだろう。セッションは得てしてルーズな演奏になるもんだし。ギタリストは、ギター持って、演奏をおっぱじめて、歌って、なんかやって、みたいな。でもそれが最高なんだけどね。健全だろ?

※76年5月発表のロジャー・マッギン(元バーズ)の4枚目のソロ『CARDIFF ROSE』はミック・ロンソンのプロデュース。ギターやピアノ他多くの演奏でも貢献。
——そういえば、ロジャー・マッギンと一緒に仕事したよね?
MR:そう。ニューヨークでやった。多くのミュージシャンはNYにいるからね。僕もNYに住んでた。ロジャーもNYに住んでた。だから、一緒にツルむようになって、そんなこんなで演奏もするようになった。そういえば、新聞の広告に書いてあったんだけど、ロジャーと僕とで、いくつかライヴをやる計画があるんだって。実現すれば、単純に楽しいだろうと思うし、一緒にプレイするのも楽しみだ。でも、西海岸出身のミュージシャンもいるし、僕等はどこかでライヴやろうかなんていう話し合いをしたことはないんだけどね。プロモーターは「ライヴをやるべきだ」って考えたんだろうな。
——プロモーターはあなたとマッギンには何の確認もなく、ライヴをブッキングしてるの?
MR:あー、実際には、少しだけ話には出たことがあるよ。でもその時は「いやいや、それはやりたくないなあ」と言ったんだ。でも広告にはいまだに書いてあるし、ライヴの名義は「WITH THUNDERBIRDS」とか書いてあったけどね。名前、THUNDERBIRDSであってたっけ?(註:正確には「THUNDERBYRD」)プロモーターのそんな所業にはちょっと疲れ果ててしまったね。信じられないよ。僕の言いたいのは、ライヴは別にいいんだよ、一緒にプレイするのは全然楽しいだろうとは思う。でも、そんな風にビッグ・プロジェクトのように装うための道化にされるのはゴメンだね。もし誰かがギターをプレイする時に、他人から「さあ皆さん、ギターを弾きたいって言ってる人が今からギター弾きますよ!」なんて横から言われたくないだろう? ギタリストは、ただシンプルにやる気を出して、シンプルにプレイする、そうあるべきだ。そうでなければ、そんなワケのわからない広告とかの及ばない他の国とかにでもいって、プレイする。告知なんて、地方のちっちゃなローカル新聞とかで十分だ。
——名前で客寄せとかは、したくない、と。
MR:プレイする上では、そのほうがいいね。ホントに小さなバーでのライヴ、もしくはその真逆の、ホントに大きなイベントなんかで演奏するのなら(名前で客を呼ぶのも)構わないけど、そのどちらでもない、中規模なライヴでそれをやるのは我慢できない。何が問題かといえば、実際に演奏するプレイヤーへのリスペクトを皆失ってしまうと思うからね。その名前に惹かれてライヴを見に来た観客さえも、ね。それをやった瞬間に、プレイヤーではなくビジネスマンになってしまう。そういうビジネス・トークばかりがいつも人の話題になるのはそんなに気持ちのいいモンじゃない。そういうヤツなのか、って間違った印象を持たれたくもないから。でも僕個人の話としては、クラブに言って演奏するのは何ら問題ない。ニューワースだって先週…… いや、先週じゃないか、とにかく今年の夏のことだけど、NYのグリニッジ・ヴィレッジにあるアザーエンドっていうクラブ(註:同所は70年代に一時期だけ「OTHER END」という名で営業していたが、それ以前、もしくはそれ以降も「BITTER END」という名で営業。カーティス・メイフィールドやダニー・ハサウェイのライヴ盤も録音された、有名なクラブ)でプレイしてた。そのクラブは僕が初めてディランのバックバンドのメンバーと会った場所なんだけど、その時も僕はいきなりステージに立ったんだ。参加してたミュージシャン達も、お互いが何ものかはよく知っていたけど、契約とかは一切関係なし。それは素晴らしい体験だったよ。だから僕も、そうありたいと思ってるし、そういうスタンスでいたいんだ。
——もし、キッチリとした了承の上で告知されていたら、ロジャー・マッギンともライヴをやってた?
MR:参加するミュージシャンに関して程よく「ルーズ」が担保できてたら、やる気も出るし1〜2曲参加するのは全然いいよ。上手くいくだろうと思う。でももし「さあ、皆さんお待ちかね、遂に伝説の〜〜が登場だ! 1976年、新しいバンドの誕生だ!」みたいな言い方をされるのであれば、観客はそういうモンだと思って見にきちゃうだろうし、そんなのは願い下げだね。

※73年に袂を分かった2人だが、実際にはその後ロンソンとボウイの共演は83年ボウイのツアー中カナダにて1度、その後は晩年93年にフレディー・マーキュリー追悼ライヴで1度だけ、となった。写真は83年9月4日のもの。
——ボウイともう一度一緒にやる、なんてことは?
MR:え? もちろん喜んで。デヴィッドのことは大好きだし、本当に頭のいい人物で、素晴らしい曲を沢山書くし。今後も沢山の名曲が生まれるだろうし、彼ともしまた一緒に演れたら凄く楽しいだろうね。以前、ある質問に答えて僕は「もしまたボウイを見かけることがあったら、蹴飛ばしてやるつもりだ」って言ったことがあるんだけど、もちろん彼のことが大好きだから、ね。
——あまり仲のいい2人のセリフには思えないんだけど。
MR:文字通りの意味に捉えないで欲しいんだよ。その時、彼に改心して欲しかったんだ(註:75年のとあるインタビューにてミック・ロンソンがボウイに関してした発言——「いい加減にデヴィッドは自分を立て直すべきだ。今の彼はもうムチャクチャ。たった今この部屋に入ってきて、僕の目の前に座って欲しい。僕が彼のケツの穴を思い切り蹴飛ばして分からせてやるよ」を指す。アメリカでコカイン中毒になり、体もガリガリにやせ細ったボウイに対して、旧友として助言したもの)。判ってもらえるかな? 友人だし、仲違いしたいとは思わない。僕はさっき言ったようなやり方でやってきたし、簡単にリスペクトされたい、チヤホヤされたい、収入を増やしたいからといって、友人関係とかを利用するつもりはない。もう長いことボウイには会ってないし、僕も、彼からも、電話をしたことすらない。今彼がどこで何してるのかも知らないし、彼も今僕がどこにいるか、知らないだろう。僕は彼を尊敬してるし、彼の音楽も大好きだから、さっきのセリフを少し後悔することもあるんだ。
——人として、もしくはアーティストとして、ボウイとディランは全然違うタイプ?
MR:ディランはアメリカ人、ボウイはイギリス人。それぞれ思い描く理想みたいなのはやはり違うね。
——ディランとの共演のあと、ファンがあなたを見る目は変わったと思う?
※75年から76年にかけて行なわれたボブ・ディランの「ローリング・サンダー・レビュー・ツアー」は、76年5月の公演の模様がアルバム『激しい雨(HARD RAIN)』として76年9月に発表、またこの時のライヴ映像が米NBCテレビで放映されてもいるが、映像は現在も未ソフト化。またその半年前となる75年冬に行なわれたライヴの模様が「ブートレッグ・シリーズ」の第5弾としてCD化され2002年に発表されている。こちらには初回特典としてDVDが付属したが、2曲のライヴ映像が収録されたのみ。
MR:知らないな。それについては考えることすらない。僕を知っている人にとっては意味のある質問なんだろうけど。人が僕をどう思うのか、なんて、考えることは一切ない。僕が自分の立ち位置をエンジョイできている間は、僕にはまったく関係のない問題だろうね。僕のやったことを好きになる人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。「なんでロンソンはあんなヒルビリーみたいな、糞な音楽やってるんだ? 今まで演ってきたような路線に戻ればいいのに」って考える人もいるだろう。まあまた以前のようなモノをやるのもいいんだけど。過去にやったことを続けるってのも、素晴らしいことだとは思うから。でもちょっと「お手軽」だし、いつの時代の僕を再現すりゃいいのか、なんて誰にもわからないよ。全然違うタイプの曲があるんだし。以前やってたような、ハードなロック・ナンバーを今も演奏するけど、今では共演するミュージシャンも違うし、そういうことだよ。だから今まで演ったこともないミュージシャンと、今までやったことのない曲を演る。いつもそうやって動いてるんだ。人々がそれを気に入ってくれないとしたら、僕はもう次に何をすればいいのかさえ判らないね。僕の演るものを気に入ってくれれば、と願うだけだよ。おそらく気に入ってくれるだろう、と思ってるし、ある程度確信もあるんだけど、もしそうでなければ何もできなくなるね。そういうリスクを背負う覚悟はもちろんあるけど、おそらく皆、気に入ってくれるだろう。
——ローリング・サンダー・レビューのメンバーでは、アルバムを作らないの?
MR:えっ、僕には判らないよ。でも多分ないんじゃないかな。ツアーは全部撮影されてたんだけど。将来的に映画を公開する予定があるとかなんとか、そういう時のために一応抑えた映像だとは思うんだけど、どこかのタイミングでその映像(の音源)からアルバムを作ることもあるかもしれない。フィルムとアルバムを一緒に公開する、とかよくあることじゃない? でもその時はまたディランとレコーディングをすることになるかもね。
——ディランと一緒に、歌ってみたい?
MR:そりゃね。でもステージの上で、ってこと?
——そう。
MR:あー、そりゃ勘弁してくれ。バスタブの中ならオッケーだけど。


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6.21.2013

Mick Ronson Interview - Part 5

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——ボブ・ディランと一緒に演奏してみて、自分のギター・スタイルがより開拓された。みたいなことは感じてる?
MR:ああ、そう思うね。自分のプレイがどんどん良くなってる。開拓されてるとも思うし、よりスピーディーになったとも思う。とにかく自分でも、ギターをプレイするっていうことに興味が湧いてきたからね。重要なことだ。新しい奏法なんかもみつけたりしたんだ、しかも、けっこう沢山のスキルを身につけた。そういう事にまた興味を持つようになったし、いいギターがまた欲しいと思うようになったし、他のギタリストよりも、よりよいプレイをしたい、と思うようになった。
——ディランから最初に共演のオファーを貰った時って、彼のやっていた音楽と、自分のスタイルがフィットする、って想像できた?
MR:いや、判らなかったね。どんなことになるか想像もできなかったし、自分がどんなプレイを出来るか、出来ないのかも、それすらも判らなかった。どんなことが起こるのか、何も頭に浮かばなかった。だから大変だった。最初はホントに大変だったよ。でも、今ではそんなに大変でもなくなったけど。人を観察する方法とか、人と一緒に演奏する方法とか、そういうのを勉強したから。全部の面でよりシャープになったよね。大抵の人は「ハハン、アイツ何もできてねえじゃん。アイツそんなに良くねえな」とか思ってるのかもしれないけど、そういう人達は僕をほっといてくれるとか、激励してくれるとか、一切無関心でいるとか、まあ無関心でいてくれたほうが判り易いけどね。その時は、自分も本当にラフな演奏しかしなかったし、自分でもそう思ってたしね。


※75年のローリング・サンダー・レビュー・コンサートで「激しい雨が降る」を歌うディラン。同ツアー初期は、ディランが顔を白く塗っていることでも知られますが、動画中ディランの斜め後ろでレスポール・カスタムを弾くロンソンの姿が確認できます。
——ディランからオファーの連絡を貰う前って、ディランの音楽に詳しかった?
MR:いや、そんなに詳しくなかったんだ。ラジオでかかってるから聞いたとか、前に一度聞いた事ある、とかそんなカンジ。あの曲がアレだ、とか全然わからなかったね。どっちにしろ、ディランの曲で知ってた曲も、1〜2曲くらいしかなかった。だから共演するまで聞き込んだことはなかったんだけど、皆どれもいい曲ばかりだよね。
——ディランの昔の曲、昔のアルバムなんかも遡って聞いてみたりした?
MR:いや、そういうのはするつもりもなかった。2曲くらい聞いたことがあるってだけで、それよりも何よりも、自分自身を(ディランという)枠の中のどこに置くか、どんな立ち位置を確保するか、この場面で何が聴こえてくるかを耳で確かめる、そんなことのほうに集中しようと思った。でも結局は集中できなかったね。グルグルといろんなことの中でさまよってしまったカンジで。まっすぐにコレだ!って思えるものに集中することは出来なかった。ディラン・ナンバーを何曲か演奏しなければならない、てことで聞き込んでみたとしても、次の瞬間には同じ曲の別バージョンもあって、なんてカンジで、しかもその別バージョンてのは大抵オリジナルのアレンジとは全く違った形だったりして。「自分が好きになった曲だけ演奏します」なんて契約は絶対にしたくなかったから。それにもし自分が今後別なツアーで(ディランに)呼ばれたとして、そのツアーでは過去のアルバムの曲はやりません、て誰かが決めてしまうかも知れないでしょ。だったら最初から、何も知らないほうがいい、と思ってね。
——ディランの曲に、何かしら新しい解釈を持ち込もう、とは思わなかった?
MR:いや、むしろどんな解釈があるのかを学んだんだ。自分にとってはどっちにしろ「新曲」、フレッシュな曲だったから。レコードを聞き込んで、レコードと同じプレイを担当しよう、とか考える必要さえなかった。レコードを聞き込んで、大好きになってしまったら、その中のプレイをコピーしようとしちゃうでしょ、必然的に。他の方法を見つけることさえ困難になってしまう。だから僕は、そんなふうになるのを避けてみたんだ。
——ディランとは、別なツアーでも一緒にやる予定がある?
MR:いや、わからない。それはオファーがあってから、の話だから。
——もしオファーがあったら、参加する?
MR:もちろん。ディランのツアーに参加してた人達は、みんなホントにホントにいい人達ばかりで、一緒にいるだけで興奮するような人ばかりだしね。皆昼夜問わず、真夜中のパーティーでもいつでもどこでも一緒にいて、皆でジョークかましあって、皆で大笑いして、そんな素晴らしい時間を過ごせたんだ。最高だよ。だって知ってるでしょ? バンドがロードに出ると、沢山の人々が同行するわけだけど、大抵はその中の3〜4人がツルんで、他の3〜4人が別なグループ作って、更にあっちには別のカップルができて、あっちではひとりぼっちの寂しいやつがいて、みたいな事になるのが常、だから。
——皆が皆、一緒に帯同するってワケじゃないよね。
MR:変な話だよね。「御一行」なのに、皆一緒、てカンジじゃない。今回のローリング・サンダー・レビュー・ツアー程の大所帯ってわけでもないのにね。「ディラン御一行」は皆がホントに一緒に行動するんで、僕もビックリしたんだ。ホントにいい体験だった。満喫したよ。そう、だからもしオファーがあればまた参加するつもりだ。楽しいし、また更に多くのことを学習できる場だし。もっと曲も聞き込むこともできるだろうし、色んな曲のプレイを覚えることもできる。最高の機会だよ。
——ボウイと一緒だったときは、仕事じゃない時間でもボウイと一緒に行動した?
MR:ああ。クラブとかいろんな所にも一緒に行ったね。ディスコにも一緒に何度も行ったし、いろんな事で一緒に行動したし、いろいろ一緒に楽しんだよ。皆バラバラになって、それぞれ別行動でウロつくなんてことはなかったね。いつも一緒にツルんでた。これから出てくる新人のバンドにひと言アドバイスするとすれば、別々で行動するな、いつも一緒にいろ、ってことだね。だって、バンドのメンバーがひとりで飲み物を持ってどこかの角に座って、また別な遠くの角には同じバンドのもうひとりのメンバーが座ってるけど、互いのことは一瞥もしない、なんてシーンを、見たくはないでしょ? おやすみ、とかそんな言葉さえないとかね。一緒にいること、それは大事なことなんだよ。でも僕等は一緒にいたし、だから本当に楽しい体験をした。
——その体験は、ディランのローリング・サンダー・レビューでも似たような体験ができた、と?
MR:何が驚いたって、僕が今さっき言った事は、ツアーに参加したメンバー全員が異口同音に言ってた、ってことなんだ。皆カリフォルニアからきたとか、テキサスからきたとか、メキシコからとか、ニューヨークの人もいればイギリスの人もいれば、カナダの人もいる、っていうのに。20人とかそんな数じゃなくて、80人くらいのメンバーがバラバラの地域から集まってきて、ツアーの終わり頃には100人くらいの集団になってたんだけどね、本当にそんな大人数が、皆一緒になって行動したんだ。時たまロード・クルーもツアーに帯同するんで、全員がいつも常に同じ場所、1カ所に集合してる、ってワケじゃないけど、大抵は皆いつも一緒にいたね。バラバラで行動する必要ってのは、滅多になかった。でもミュージシャン、ミュージシャンに帯同する人、ロードマネージャーとかの人、クリス・オーデル(註:スーパー・グルーピーと呼ばれた、有名な女性。ミック・ジャガー、ボブ・ディラン、リンゴ・スター等多くのスター達のグルーピーをやっていた)、本当に皆いつも一緒にいたよ。えーと、どこまで喋ったっけ?
——ボウイの時代も、同じようにスタッフと連れ立って?
MR:そうそう。ボウイの時との違いは、今回はやたら大人数だったってこと。全てのミュージシャンは皆、エゴとかそういうのをそれぞれで持ってるモンだけど、それこそゲストも何もかも皆最初から一緒に行動するってこと。
——ミュージシャンは、何人くらいいたの?
MR:16人とか、そのくらいだったと思う。16人のミュージシャンそれぞれと一緒に演奏するだけで、その16人と話し合いしてるようなもんだよ。それぞれがキャリアを持ってるんだ。彼らと一緒にいれば、その各々のキャリアのバックにいた人々と一緒にいるような経験もできる。一緒にいるだけでどんどん良くなっていくんだ。最高じゃないか。部屋の中に足を踏み入れるだけで、10人くらいのアーティスト連中がいて、最高の時間を楽しめる、そんな経験なかなかできるモンじゃないだろ? しかも会話だって「あなたのアルバム、大好きです。本当に好きなんで……」とかそんな類いのものでは決してない、ていう。言ってる意味わかる?


※動画は、ロンソンのドキュメンタリー番組の一部で、ディランのローリング・サンダー・レビューに参加した時のロンソンを見る事ができます。また、インタビュー中に出てくるボビー・ニューワースの証言等もあります。この動画でロンソンが弾いてる白いレスポール・カスタムはレンタル使用していたギターで、同じギターをロンソンは76年夏にジョン・ケイル&ルー・リードのジョイント・ライヴにゲスト参加した際にも使用しています。
——わかるよ。
MR:そんなつまらない会話なんてしたくないでしょ。人は人なんだし、酒も飲むし、寝るし、ただそれを一緒にするってだけ。エゴを誇示したりなんて必要ないんだ。皆各々のエゴがあっても、別にわざわざそのエゴを剥き出しにして争う必要なんて一切ない。そのほうがいいでしょ。僕がツアーに出るのが好きなのは、そういう経験が仕事でもいい結果を生むって判ってるから。重要人物は、ボビー・ニューワース(註:ディランの友人でもあるSSW兼プロデューサーで、ローリング・サンダー・レビューにも参加)だったな。パーティーをやらせたら彼にかなう人物は他にいないね。人間的にもとってもいい人物。人が集まる場所で、何をやればいいかを知ってる人。何をやれば良くて、何がウケるか、そういう意味でとても頭の回転の早い人だった。物事を把握し、すぐに精通するっていう人でね。どんなシチュエーションでも彼が何かやれば、ウケるし上手くいく。素晴らしい人だよ。そんな彼がまとめ役になってたんだね。
——ディランと最初にやったライヴは、どんなカンジだったの?
MR:まずボビー・ニューワースと知り合いになって、彼が「ボブ・ディランがギタリストを探してる」と言ったんだ。最初はジョークだと思ってたんだ。だって僕は、ボブ・ディランのことを全然知らないし。でも彼が言うには、ディランがツアーをやる予定なんだけど、バンドのサウンドがオープンでルーズなんだ、と。最初は「何か僕は聞き間違いをしてるのかな? 何を言いたいのかなあ」と思ったんだよね。でも、そう、彼は僕に参加しないか、と言ってたんだ。すごく驚いたよ。
——それまでディランと同席してセッションしたりした経験は?
MR:いや、彼は「掛け合い」はしない。彼は歌を歌うだけ。曲中で短いソロを何度か織り込むようなプレイも好きだけどね。プレイヤーとの「掛け合い」のようなことはしないんだ。
——ディランとの共演では、いままでに演ったこともないようなプレイをしなければならなかったんじゃ?
MR:いや、そうでもないよ。僕はやりたいようにプレイしただけ。あ、でもいくつかカントリーっぽい奏法を勉強したけど。
——スライドなんかも演った?
MR:いや、やってない。今までやったこともない。好きじゃないんだよね。
——ディランの音楽には、スライドギターが似合いそうなモンだけど。
MR:たぶんそうなんだろうね。でも僕はスライドバーを使うのではなくて、エフェクトを使ったりしてそういう効果を狙おうとした。でも、言ってることはよく判るよ。スライドを借りてやってみれば良かったかもね。試してみようかなあ。色んな事をやるべきだ、と思ってるし。
——ローリング・サンダー・レビューでは、フェンダーの小さなアンプを使ったの?
MR:そう。バンドにはデヴィッド・マンスフィールドっていうペダルスティールのプレイヤーもいたんだんだけど。それはともかく、もし僕がギターでソロノートをプレイしたら、それはスライドギターの音みたいに聴こえると思ったんだ。ファズでも踏めば、エレキギターの音だってわかるんだけど。ファズでそんなサウンドを出したら最高だと思って。リードギターでね。
——ディランはイアン・ハンターとは面識がある?
MR:ああ、初めてディランと会ったとき、僕はイアンと一緒にいたから。その場にはボビー・ニューワースもいた。6月か、7月の頭だったな。


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6.18.2013

Mick Ronson Interview - Part 4

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——アコギは、どんなのを使ってるの?
MR:1本だけ持ってる。ハープトーンのアコースティック・ギターなんだけど。なかなかいいギターだよ。音も凄くいい。ニューヨークで作られてるブランドなんだけど、ボウイと初めて回ったツアーの時にそれを使った。ハープトーンは、なんとかっていうNYの人(註:ロンソン本人は知らないんでしょうが、作ってたのはサム・クーンツというビルダー)が作ってるんだけど、彼が僕等に一揃えのアコギをまとめて提供してくれてね。6弦を2本と、12弦を2本。12弦は2本ともボウイが使ってた。それからアコースティック・ベースも1本貰ったな。ハープトーン製品だけで、僕等は全部の音域のサウンドをまかなえたってワケだ。皆それぞれ(ギターを)持ち帰ったんだけど、別の日にオフィスに僕が出向いたら、誰も持ち帰らないギターが1本あったんで、僕がそれを貰うことにしたんだ。
——ハープトーンのギターは、もともとボウイの為に与えられたギター?

※70年代にボウイがハープトーン製12弦ギターを(2種類)使用しているのは周知の通りですが、ロンソンが所持/使用したハープトーンの6弦はミディアムジャンボのボディーにブロックインレイの入ったネック、というもので、74年のソロ・デビュー・ライヴの動画でも確認できます。ハープトーンはNYブルックリンのブランドで、若き日のサム・クーンツが同ブランドにギターを提供していました。バファロー・ヘッド、アーチバック等独特の形状を持ち、ジョージ・ハリソンが使用したことでも有名だと思われます。
MR:何本か僕もアコギは持ってたんだけど、ハープトーンの人がどんな目的でオフィスに置いていったかは、直接会ってないから判らないな。誰がどこからやってきて、何を置いていった、とかそういうことには僕は無頓着だったから。誰かがギターを貸してくれたとか、アンプを貸したとか。そういえば、一度僕のアンプがなくなってしまったことがあったんだけど、なんでそんなことになってしまったのか、いまだに自分でも判らないままだ。判ってるのは、僕はそういうの(機材)を売ったことは一度もない、っていうこと。売った事がないのに、何故かそういうのがいろんなところに出回ってしまうんだよね。まあ、誰かがそれを使って満足してるなら、それでもまあいっか、なんて思って。今なら僕にはよく色んな所から電話がかかってきて「欲しいものは何?」なんて聞かれるようになったから。長年にわたってそれこそ山のような機材とかアンプとかを入手したけど、それらを全部持ち運びできるワケでもない、って誰にでも判ることだし、(紛失に関して)つまらない口論をしなくてすむしね。僕にとっては、山のような機材を持ち運びすることよりも、その時々で欲しいと思ったものを入手する、っていうほうが楽チンだから。どこに行こうが、どんな仕事をしようが、そのほうが楽。
——ソロ・アルバム、それからモット・ザ・フープルに加入してた時期には、どんなアンプを使ってたか、覚えてる?
MR:マーシャルだよ。でもモットの時は…… なんだったかな? アンプの名前、覚えてないや。モットが自前で持っていたアンプ——アンペグの100Wのもの——をそのまま使おう、とは思ってたんだけど、でもそれは凄く歪むアンプで、僕はそこまで歪まないアンプを使いたかったから。そのアンペグのアンプは、サウンドも細かったんだよね。トップエンドばかりが目立って(トレブリーで、の意味)、ボトムエンドはすごく薄いカンジで。もしそのアンプでトップエンドを目立たせないようにしよう、と思ったら、低音弦をもの凄く強くピッキングする、いや、椅子かなにかで低音弦を殴りつけるくらいしなければならなかったんだ。そんなアンプだった。
——アンペグのそのサウンドは好きになれなかった、と。
MR:だからマーシャルを使った。スタジオに入ってすぐ、アルバムのために何曲かやる必要があったんで、マーシャルをオーダーした。プラグインして音出してみてすぐに「あーコレコレ」って思って。ホントにいい音だったんだ、満足したよ。イアン(・ハンター)もすぐそのサウンドを気に入ってくれた。今まで聞いた事もないような素晴らしい音、と彼も思ったようだよ。「俺も買おうかな、俺もその音欲しいな」って、何度も(笑)。今じゃ彼も、すっかりマーシャル・アンプの虜だけどね。でも彼(イアン・ハンター)のギター・サウンドも、既に凄くよかったんだ。彼はフェンダーのアンプを使ってたんだけどね。そのフェンダーのアンプは驚くような素晴らしい音で、もう何年も何年も彼が使ってたアンプなんだけど。彼がマーシャルのアンプを使うようになってからは、もうすっかりマーシャルのサウンドにノックアウトされようだ。本当にパワフルだからね。以前よりもより良いサウンドを出すようになった。今も彼のギター・サウンドは素晴らしいよ。
——ジギー・スターダスト時代のアンプは?
MR:マーシャルの100Wと、12インチ×4発のキャビ1つ。
——キャビを1つしか使わないのは、何か理由があったの?
MR:2つ使うと、音がデカすぎたんだ。1つでも、十分に爆音なんだけどね。キャビ2つでは、トゥーマッチと思えるくらい音がデカすぎた。
——レコーディングでは、マーシャルさえ使っていれば自分が意図したギター・サウンドは大抵実現できた?
MR:そういう場合もあった。でも、いつでも全部マーシャル、っていうワケでもない。アンプをスタジオに持ち込んで、そこでいい音を鳴らすっていうだけでも結構大変なことだから。卓を通して、前に出過ぎないようにバランスを取って引っ込めて、全体を小さな音量でプレイバックした時でも素晴らしいギター・サウンドが聴こえてくるどうか。それはもの凄くタフな作業なんだ。ドアとか窓を開けた状態で、小さな音でモニタリングしてて、まあ外から犬の吠える音が聴こえたりすれば窓やドアを閉めることになるけど、すると途端にマッチ箱から音が出てんのか?って思うくらいサウンドの印象も変わる。アンプのマイキングをクローズ(スピーカーに近づける)にしたり、とか——今僕は、大抵の場合はマイキングはベタベタにクローズにして録音するんだけど——同時に部屋全体の鳴りを拾うために、アンプから離れた位置にもマイキングする、とかね。
——いつも、頭で何かギター・サウンドが浮かんだら、すぐスタジオに入って曲作りする、ってカンジ?
MR:そうでもないね。というのも、いままでは大体同じようなギター・サウンドばかりを使ってたからね。特にレスポールを使う場合、大抵は似たり寄ったり、もしくはいつもと同じサウンドで演奏してたから。アンプのスイッチを入れて、あとは演奏するだけ、だよ。
——ギターのトーンをいろいろと模索して、ベストなサウンドを探しまわる、なんてことにはそれほど執着しなかった?
MR:そりゃ僕も、いろんなところで違ったギター・サウンドを使い分けてはいるよ。でもギターはいっつも同じギター。丁度今、ギターから何から全部を入れ替えて、全く違った新しいトーンを出そうとしてるところだけど。昨日の夜、リッケンバッカーを使ってみたんだけど、なかなか良かったんだ。クリーンで使うと最高なんだよね。ギブソンのギターとは全然違う魅力。本当に新鮮で、素晴らしかったな。何本か新しいギターを購入、もしくはレンタルしようと思ってるんだけど、あのクリーン・サウンドはホントに最高で、僕もリフレッシュされたカンジだよ。そういう体験、最高だよね。
——ボウイのバンドの中では、既に何もかもやり尽くした、ってカンジ?
MR:うん。ギター・プレイヤーとしてはね。いつも「他のこと」に関心が湧いてしまうタイプなんだ。一介のギター弾きです、なんてことは一度もなかった。……ああ、でも思い返せば、あそこに居られたことは凄くハッピーだったよ。デヴィッドと出会うまでは、あんなにギターを弾くチャンスもなかったし。ギターを持って出かけて、それを弾く、なんて機会もなかった。そもそもギターもアンプも所持していなかった。でもステージやスタジオでは、ただギターを弾く、それしか出来なかった。むしろ、ギターを弾くよりも、他のスタジオワークのほうにものめり込んだりしたんで、あの頃はよく「うーん、今はまだギターを弾きたくないなあ」とか言ってたよ。ギターとかどうでもいいでしょ、みたいな態度で。
——何故そんなふうに感じるようになってしまったのかな。
MR:スタジオの現場では、僕のやりたかった事っていうのは「二の次」ってカンジだったからだろうね。プロデュースとか、エンジニアリングとか、そんな事。ギタリストなんだから、もっともっとギターを弾くべきだったんだろうね。でも、いいんだ。オッケー。ときどき自分でも自問自答してたんだよ。たしかに自分が考えていることは、一介のギター弾きの考えること、成すべきこととしては奇妙な部類のものだ、と。でも自分では実際にそう思ってしまった。どういう道筋で、そう考えるようになったのかは自分でもわからない。今はね、また、ただのギター・プレイヤーに戻ろう、って考えてるんだ。ギターを弾くのが楽しくなってきたしね。面白いよね。だから今、新しいギターが欲しくて仕方ないんだ。
——ボウイからギター・パートに関してああしてくれ、こうしてくれ、といった指示はあった?
MR:いや、全然。彼はいつもいくつかの曲のアイデアを出すだけ。彼は本当に素晴らしかった。デヴィッドがホントに頭がいい奴だってのは知ってるよね? 特に、音楽的にクレバーだと思ってる。彼のアイデアを聞いて、そのアイデアで僕のパートがすべき事を考えてみると、デヴィッドもそれと同じ事を既に思いついている、っていう具合に。僕等はそういうレベルで上手くいってたから、何曲も素晴らしい曲を共作できた。音楽がどうあるべきか、どういう道を歩むべきか、その辺りは僕等はまったく同じことを考えていたからね。本当に上手くいってた。で、それこそが僕がたった今、また見ている道なんだよ。今、たったひとりで朝起きて、沢山の物事を経て今自分流でセッションに参加したりするっていうのは、いままで経験したことのない立ち位置だからね。でも、たとえばボブ・ディランのような人と出会ったりすると、またそれも素晴らしい体験なんだよね。なぜなら彼は、ここはこうするべきだ、と教えてくれる人物だからね。それまでは、判らないことだらけでも「コレだ!」って思えるものでも、とにかくなんでもかんでもプレイし続ける必要があったから。
——ジギー・スターダストの頃のようなイメージに戻そう、ってこと?
MR:いや、今回は僕(が主役)だから。グリッターなメイクとかそういうのはしないよ。普通の赤と白のTシャツとか、白いスカーフを巻くとか、そういうの。


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6.16.2013

Mick Ronson Interview - Part 3

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——ボウイのバンドへ参加するのを決めた理由は?
MR:ボウイとはロンドンで初対面した。彼もバンドでの活動を模索してて、丁度そんな時に僕がウロウロしてた、ってことだね。試しに一緒に音出しをすることになった。で、『世界を売った男』を録音し終えたあと、一度ヨークシャーに戻ったんだけど、その後また再び呼び戻されて、バンドに参加することにした。最初のころは、サウンドももっとメロウで静かなカンジ(QUIETER STUFF)だったけど、やっていくうちにどんどん大音量で歪んだものに変わっていった。『世界を売った男』は十分に歪んでいるけど、それ以降の作品はまずシンプルで静かなものだった。アンプも小さなものを使用したり、ね。
——『ハンキー・ドリー』のサウンドはそうやって決めていったの?
MR:シンプルで静か、でしょ? 『ジギー・スターダスト』を作り始める頃から、どんどん大音量で歪んだサウンドに変化していった。アンプもどんどん大きなものへ、照明機材もどんどんデカくなって、PAシステムも、ってカンジで。


※67年製の、初期型マーシャルMAJOR、通称「PIG」。インタビュー中ではロンソンは間違って100Wと言ってますが、もちろん「200W」です。しかし、とても興味深いことに、この初期型MAJORは実は「回路の理論上200Wのパワーを出す事ができない」という回路を持った特殊なアンプなのだそうです。これはAKIMA & NEOSのアキマさんから教えていただいたことですが、その辺のことは是非アキマさんに当方のアンプをバラしてもらって検証して頂きたいなあ、なんて思っています。
——ボウイとやってた時期、どんなアンプを使ってたの?
MR:マーシャル。もうずっと長いこと、マーシャルの100W(註:もちろんこれはロンソンの言い間違いで、200WのマーシャルMAJORを指します)とキャビ1つっていうセットを使ってる。スタジオでどのアンプをどう使ったか、は覚えてないなあ。スタジオの中になんかアンプが転がっていれば、それがどんなアンプなのか、どんな音が出るか、とかたいして考えもせずに、とりあえずプラグインしてみたものだから。使えるものなら何でもいい、と思ってたんで、どんなアンプかは重要なことではなかった。でも、つい最近やったソロ・ツアーではフェンダーのアンプを使ったんだけどね。
——フェンダーの、どのモデル?
MR:わかんないな。ツインよりもっと小さなヤツで、10インチのスピーカーが2つ入ったアンプ。「PRO」かな? そのあたりのアンプだと思うけど、あまり歪まなくて、なかなかいいカンジなんだよね。もちろんマーシャルは今でもスタジオで使ってて、そっちは本当にパワフルな音で、いつもクランクさせて使うけどあの歪みがいいんだ。
——ギターは何を使ってるの?




※ロンソンのサブ・ギターは、サンバーストのレスポール・デラックス——ただし、ピックアップがノーマル・ハムバッカー、エスカッションも黒というカスタムオーダー仕様。ラージヘッド、3ピース・トップ、パンケーキ・ボディーで、71年NYのSAM ASH GUITARSの特注品、と言われているものです。このギターはデヴィッド・ボウイが「THE JEAN GENIE」のPVで演奏してるギターそのもの。また、このギターはモット在籍時〜ハンター/ロンソン・バンドでも使用されています。
MR:今はスタジオでレスポールをレンタルしてもらって、それを使ってる。前に使ってたブロンドのレスポール・カスタムは58年製(註:この時ロンソンは実際に「58年製」と発言していますが、これもあきらかに間違えてます。もちろん68年製です)。もう1本もってたレスポール(※別項参照)は、何年製かちょっとわからないな。カスタムよりはもっと新しいモノ、で間違いないんだけど
——そこからギターを変えたのは、何か理由があって?
MR:いや、見たらわかるけど、持ってたギターの片方は、ネックにヒビが入ってしまって、もうチューニングすら合わせられない。もう1本のほうも、ピックアップがイカレてしまって、ブリッジも曲がってしまってオクターブ・チューニングが合わせられない。この2本をなんとか(使えるように)しようとは思ってるんだけど、でも今は新しいストラトが欲しいんだよね。ショップをあちこち見て回って、お店にぶら下がってるギターを物色して、何本か試して、そして店を出る、みたいな。……可愛らしいでしょ?(笑) 試奏してても、このギターを買うかどうするか?って考え始めると、もう演奏する手も止まっちゃうんだけどね。実際に何か1本購入するまではわからないんだけど、でもとにかくストラトを求めてるんだ。…あー、ネックの折れたギターでツアーやったのを、今思い出したよ。


※ロンソンは74年の2月から4月まで、ソロ・ツアーを行なっています。全15公演を行ないましたが、その後モット・ザ・フープルに参加、ハンター/ロンソン・バンド、ディランとのツアーを経て、76年の年末に再びソロ・ツアー(5公演のみ)を行なっていますが、恐らくギターが壊れた云々のエピソードは74年のツアーでの話と思われます。
——それはボウイと演ってた時のツアー?
MR:いや、僕のソロ・ツアー。何度かコンサートをやった時のことだ。その時3本ギターを持ってたんだけど、全部壊れちゃってね、慌ててガムテープを買いにいって、それでネックを全部グルグル巻きにした。そのガムテ・ギターを持ってステージに立ったんだけど、ネックの裏側は全部ガムテープで何重にも覆われてて、ね。まったくもって今考えたら馬鹿げた話だよね。後で周りの皆は、それを見て大笑い、だったよ。笑い死にするぞ、っていうくらいの大爆笑。その後、ツアーの別な日に、一度アール・スリックからギターを借りて使ったんだけど、プラグインするや否や「ア、コレ最高だ!」ってすぐ思ったね。だってそのギターはチューニングも合うし、ネックの裏はスベスベだし。
——そんなに壊れたギター相手に無理な格闘しなくてもいいのに(笑)
MR:それまで演奏してた自分のプレイよりも、急に上手くなった気がしてね。「ウワッ、なんだこりゃ?」って感じたよ。いつも自分のギターにはなにかしらの問題を抱えていたから、そんなにチューニングもフィーリングも合うっていう経験をしたことがなかった。それに気付いたら、皆にまた大笑いされてね(笑)。それまでは多少僕のチューニングが狂ってることを笑う連中がいても、馬鹿にしたりぶん殴ったりしてたんだけど。そんなに(音が狂ってることを)気にはしてなかったんだ。そんなこともあって、新しいギターを手に入れて、プレイするのを心待ちにしてるよ。だから今、いいギターを手に入れたい、今度のは大事に扱うぞ、っていう熱意が蘇ってきてるね。放り投げたりするためのギターではなく、音楽を演奏するためのギター、ってことだね。
——他にいろいろなギターを試したりは?
MR:これからいろんな店に実際に行って、なんかギターを買って、ていうのが今凄く楽しみで仕方ない。そんなことここ何年も全然やったことなかったしね。何か欲しいものがあるときってそんなモンでしょう?「アレが必要だ、コレも必要だな」ってなってから、実際に買い物をする、っていう。今は、ポケットに金を押し込んで、とにかく外出して、楽器屋の前に立って、アレコレと選んでみたい、そんな気分なんだ。その場で現金でスパっと払うぜ! そんなのここ最近は何年もやったことがないけど。
——どんなタイプの新しいギターを試してみたい?
MR:決めてない。なんでもいい。新しいギターなら、なにかしらいい所があるだろう、と思ってる。ずーっと長い間、まったく同じサウンドを出し続けてきたから、そろそろ飽き飽きしてきた頃だしね。
——ボウイと一緒に演ってた頃、エフェクト・ペダルは使ってた?
MR:ああ、ファズと、ワウペダルを使ってた。
——フェイザーとかは使ってなかったの?
MR:使ってない。フェイザーはない。ステージでは使ったことがないね。スタジオ作業の中では、2度ほど試したことがある。スタジオに置いてあった機材で、まだイーヴンタイド(EVENTIDE)とかが出回る前だったと思う。たしか青い鉄製の筐体に入ってたんだけど、その小さな青いボックスを使うと、例の「シュワーーー」(註:フェイズ・サウンドを口で表現している/青いペダル式のフェイザーで、76年以前にあったもの、といえば、おそらく74年に発売開始された IBANEZ PT-999 PHASETONE で間違いないと思われます)っていう音が出たね。スタジオではその後すぐにもっと沢山のフェイズ・サウンドを生む機材を導入したんで——本当に、そのすぐ後に導入されたんだけど——6年前とかには、そんなサウンドを必要とする機会とか、そんな仕事なんてほとんどなかったしね。
——使ってるピックと、使ってる弦について教えてくれるかな?
MR:ピックはなんでもいい。でもあんまり柔らかいのは好きじゃないなあ。固めのほうが好きなんだけど、でも誰かがくれたら、何でも使うよ。「ねえ、ピック持ってない?」っていつも聞いてるんだけど、そう言えば誰かしらがピックをくれるんだ(笑)。あ、でもアコースティック・ギターを弾く場合は、柔らかいピックのほうが好きかも。その方がアコギでリズムを刻むときはいいサウンドになるような気がしてる。(ピックだけでなく)僕は爪もよく使うんだ。もちろん、ピックも使うし、アコギでもなんでも、いつでもそんなカンジ。アコギには柔らかいピックのほうがいいかな、とは思うけど、いつだってどんなピックだって使うよ。
——弦はどう?
MR:好きな弦は、いつも使ってるロトサウンドの弦。でもセットものを使うことはないんだ。いつも違うゲージの弦を混ぜて使ってる。1弦は.009、2弦は.011、3弦は.015、4弦は.026、5弦は.038、6弦は.046。これが今僕が使ってるゲージ。時と場合によっては、少しずつ変えてもみるんだけどね。いつも変えたりしてるんで、一定で定まったことはないね。もっとヘヴィーなものがいい、と思う時もあるし、もっと細いほうがいいと思える時もある。まあそれでもたいていの場合は、なんだかんだ試しても、さっきのゲージに落ち着いてはしまうんだけど。


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6.13.2013

Mick Ronson Interview - Part 2

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——いいな、と思えるギターを手にしたのは、いつの頃?
MR:いいギター? いいギターをいつ入手したかって? 自分が手にした最初のまともなギター、って意味では、テレキャスターだろうな。19歳の時(1966年)に買った。テレキャスターと、VOX AC30を持ってた。素晴らしいサウンドだったよ。その組み合わせで何でもやった。今までに、沢山ギターを所有したってことが一度もないんだ。ひとつのギターに夢中になってしまうからなんだけど。ましてや若い頃はあれこれとギターを買う機会さえないし。テレキャスターに夢中になって、その後はギブソン。レスポールを買った。ブロンドのね(註:このレスポールが、68年製カスタムを指していることは間違いないのですが。後に黒い塗装を剥がし、トップをナチュラルにしていて、杢目がプレーンであること、かなり明るい色なので「ブロンド」と呼んでいるもの、と考えられます)。今も実際に持っている、唯一のギターだね。僕がデヴィッド・ボウイと出会って一緒にプレイするようになった時には2〜3本くらいギターを持ってたんだけれど、その時も、その後どんな風になるかなんて想像も出来なかったしね。使ってみたいギターがあっても、誰かから借りて使って、別に所持していなくてもそれで十分だった。
——今所有してるギターは?
MR:2本。レスポールを2本持ってるんだけど、両方とも壊れてしまってるんだ。今週にでも楽器屋に行って、ギター買いまくりたいねえ。

70年代初期のサブ・ギター、ギブソンLES PAUL DELUXEをプレイするミック・ロンソン。このギターに関しては詳細を後述します。
——いいね!
MR:こんなに「ギター欲しい!」「新しいギター買うぞ!」って実際に思ったのは、ここ何年かで初めてのことだね。早く楽器屋行って、物色したいよ。
——最初に所属したバンド、という意味では、ラッツ(THE RATS)が最初?
MR:いや、最初の所属バンドはラッツよりも前のことで、クレスタス(CRESTAS)っていう名前のバンドだった。いいバンドだったよ。初めてこのバンドを見た時、「うわー、スゲえバンドだな」って自分で思ったことを覚えてる。で、彼らから参加しないかと頼まれた。彼らはヴォーカル2人、ベース、リズムギター、リードギター、それからドラムス。2人のヴォーカルは共に曲によってギターも弾く。ヴォーカルの2人はキャラが正反対で、ひとりはバディー・ホリーとかチャック・ベリー、そんなタイプの曲を担当してた。もうひとりはもっと透き通った声を持ってて、リッチでクリア。素晴らしかったよ。そんな編成だったから、どんなタイプの曲でも演奏できた。本当にホットなグループだった。
——あなたは歌わなかったの?
MR:僕も歌ったし、リズムギターもベースもドラムも歌った。素晴らしかったよ。いわゆるハーモニーを生かしたポップスみたいな曲もやったんだ。そのバンドはホントに多様なサウンドを何でもレパートリーにしたから、自動的に僕もいろんなタイプの音楽を演奏する必要があったし、実際にやった。キャバレーで活動するようなバンドだったから、いろんなスタイルの演奏方法を、そのバンドを通じて学んだんだね。あそこに参加してたのは、いい時期、いい時代だった。本当に多くのことを学んだ。
——ラッツ(THE RATS)は、どんなタイプのバンドだったと思う?
MR:ラッツはもっと、ブルースを基盤にしたロック・バンド、だね。
——クレスタスを離れて、ラッツに参加するまではどのくらい期間があったの?
MR:6ヶ月、かな。1年だったかな? クレスタスを辞めて、仕事も辞めてしまって、ラッツに参加するまでの間、僕はロンドンに出ていこうと考えてたんだ。ロンドン周辺をウロウロするようになって、チャンスがどこかにないかな、と探しまわってね。でももちろん、そんなに容易くチャンスに巡り会うことはなかった。ロンドンをウロウロしてた頃、楽器屋に貼ってあったメンバー募集のビラとか、それこそ街をウロついて誰それかまわず尋ねたりして、とあるバンド(THE VOICE)に参加することになった。だけど、結局そのバンドには2週間くらいしか参加しなかった。何故だか知らないけど、そのバンドは皆急にイギリスを離れてしまったんだ。そんなこと僕にはひと言も言わずにね。
——最悪だね。
MR:そのバンドではヨークシャーで1度、ノッティンガムでも1度、ライヴをやったんだけど、ヨークシャーのライヴのあった週末に、一度実家に帰って両親の顔を見に行ったんだ。実家を離れてから一度も帰ってなかったんで、両親に顔見せして「ああ、オレはうまいことやってるよ」って言いたかったもんだから。で、その後ロンドンに戻ってみたら、バンドは解散してて、連中は皆イギリスから消えてしまってた、というわけ。その時僕は全然お金を持ってなくて、本当に一文ナシだったし、食べるものさえなかった。することと言えば、シングルのベッドひとつだけ置いてある小さな部屋で、じっとしてることだけ。ホントに心底絶望したね。金もないし、食べ物もない。誰かに物乞いの電話をかけるためのコインさえ持ってない、って状況で。
——でも最低限のお金は必要でしょう?
MR:知ってる人なんて誰もいなかったし、ホントまいったね。本当に本当に、絶望のどん底を味わった、ってカンジ。次の日の朝、国営の生活扶助(福祉施設)に行って、何か貰えないか、部屋の家賃をどうにか払う方法はないか、パン一斤でも、もしくは他の食い物でも買うことが出来ないか、そう思ったんだけど、そこでは一切何もしてくれなかったね。結局散々たらい回しされた後に、支給を受けられることになったんだけど、貰ったものはといえば現金2ポンド。米ドルで4ドルとかそんなもんだよ。一体それで何をしろって言うんだ? まあ、真っ先にその金で食べ物を買ったけどね。最悪の時期、だね。
——その後、どうなったの?
MR:なんとかガレージでの整備士の仕事を見つけた。それでやっと、幾ばくかのお金を稼ぐようになったんで、家賃も払うようになったし、ギターの借金を払うお金もできた。随分とラフな生活だよね(笑)。そんな生活を結構長い間してたんで、後になればなるほど、毎週毎週(借金の)支払いをしなければらなない相手がどんどん増えていってしまった。家賃と食費と、ギターやアンプの代金の返済、全部を賄えるほどの収入ではなかったし。だから毎週、なにかしら借金をする必要があったから。当時の僕にとっては、結構大変な額だった。
——気後れしてる、って感じだったんだろうね。
MR:借金は100ポンドくらいあったなあ。それでも100ポンドで済んでるのも幸運だったんだけどね。でも実際に全額を返すのには2年くらいかかった(註:貨幣価値に関して、参考例を出します。1966年当時、イギリスで新作LPの価格は3ポンド前後、廉価版LPが1ポンド前後、SOLA SOUND TONE BENDERの発売価格は14ポンド、VOX AC30TWINの発売価格は106ポンドでした。1971年までイギリスではギニーという通過単位が使われていましたが、1ギニー=21シリング、1ポンド=20シリングなので、おおむね1ギニー=1ポンドと計算して問題ないと思われます)。全部返したよ。ウソじゃないよ(笑)。2年かかって。そんなこんなでしばらく過ごした後、ロンドンで別なバンドに参加することになった。THE WANTEDっていうバンド。ここのバンドは雰囲気も良かったし、次々にライヴをやるのが決定したもんだから、嬉しかったね。でも、機材車のバンにガソリンを入れる度にバンがどこかしら故障して(笑)、バンの修理に追われてたなあ。どっちにしろ、バンドで収入を得るなんてことは決してなかった。大昔から何も変わっちゃいない、よくある話だよ。どのグループに所属していても、プロになるまでは、バンドで収入を得ることはなかったし、困難に立ち向かう本当に長い長い戦い、だね。
——ロンドンには住んでたんだよね?
MR:最初にロンドンに出てきた後、一度ヨークシャーに戻ったんだ。初めてロンドンに出てきたときは、そんなに長く住んでない。ヨークシャーでしばらく出戻り生活をして、仕事を見つけて、生活とか、計画を立て直して、再びチャレンジすることにした。
——地元のヨークシャーを再び飛び出して、最初にしたことは?
MR:まずフランスに行こう、って決めてたんだ(註:ロンソンがTHE RATSに参加したのはハルに帰省した時。その後ハルで活動し、THE RATSとしてハルを飛び出し、フランスでの活動を模索した)。でもフランスでも全く同じことだった。以前と同じような胸騒ぎみたいなのを感じてね。自分の中では「今までと同じじゃない、今度こそは、今度こそは大きなチャンスが転がり込むはずだ」って思ってたんだけど、やっぱり同じで、また気分が落ち込み始めた。あいかわらず車は壊れっぱなしだし、食べ物もない、という状況で。
——あのロンドンでの極貧生活にまた舞い戻ったわけだ。
MR:2日間一切口にするものもなく、気が狂いそうになったよ。ああ、まさしく狂人、だね。ガソリンもない。ボロいバンの中で寝泊まりするけど、食べ物もない。地下鉄(の駅)に下りて、洗濯をして、出来る仕事をみつければなんでもやって。
——その時フランスにはどのくらい滞在したの?
MR:5週間とかそんなもん。フランスから帰英して、一度ヨークシャーに寄って、別な仕事、庭師の仕事をやってた。でも庭師の仕事は良かったよ。楽しみながらやれた仕事だ。本当に面白かったんだ。
——その後は?
MR:デヴィッド・ボウイと出会い、彼のバンドに参加することにしたんだ。でもボウイと出会ったのも、もう今から8年くらい前のことだからなあ、あまり正確には覚えてない。もう、すっごく昔の話のように思えるね。遠い遠い昔のことで。僕は1日に2〜3本位しか煙草を吸わないんで(註:「ロックンロールの自殺者」の歌詞冒頭でも出てくるように、煙草=シガレットは「時間つぶし」の意味を持つこともあるので、こういう表現をしたのだと思います)。もう8年も経ったんだなあ。でもその時、それ(ボウイ・バンドへの参加)がどれくらい続くのかってことだって見当もつかなかったし、悩んだものだよ。


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6.10.2013

Mick Ronson Interview - Part 1

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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 ミック・ロンソン。1946年、英国北東部の小さな都市ハル(註:正式な地名はKINGSTON UPON HULL)で生まれた彼は、若くして音楽の道を歩み始めた。アコーディオン、ピアノ、バイオリン等を経て、遂にギターの魅力に目覚める。後に彼はデヴィッド・ボウイのバック・バンド、スパイダース・フロム・マースの一員として頂点を極めたが、74年のバンド解散後は、アルバム『十番街の殺人』を引っさげソロ・キャリアをスタートさせた。

 1993年4月30日、ミックはガンで亡くなった。しかし彼のプレイは、世代を越えて多くのギタリストに影響を与え続けている。また、彼がデヴィッド・ボウイの作品群で残した楽器に対する——レスポールとマーシャルの組み合わせ、といったような——基本的なアプローチは、今もってロック・ギターにおけるテイスト/スタイルの道しるべとなっている。
 彼とのインタビューも、当初は彼がシャイな人物に思えた。しかし時間と共に、我々は徐々に打ち解けていった。インタビューも後半の方になると、「今、こんなカンジの曲を録音してるんだ」と言って、何曲かを実際に演奏してくれたりもした。



——最初の頃の話から、聞いてもいいかな? ギタリストを目指したきっかけと、どうやってギタリストになったか。
ミック・ロンソン(MR):ギターを弾き始めたのは、ホントに小さなころ。ギターの前はピアノもやってたんだ。それからアコーディオンも。僕が3歳の頃だったと思うけど、僕の家の隣に住んでいた人から、ちっちゃなアコーディオンを貰ってね。4歳の頃にチャップリンの『ライムライト』って映画を見て、その音楽にすごく感銘を受けて、音楽の演奏に夢中になった、ってことをよく覚えてるね。
——へー、ギターを始める前に、アコーディオンをやってたんだ。
MR:その後、僕の両親が僕にピアノを買ってくれる、ってことになった。僕の5歳の誕生日にね。それでピアノを始めた。でも僕も小さかったし、僕にピアノを教えてくれる先生もいなかったんだ。ピアノの先生達はみな「彼はまだ小さ過ぎる。こんな小さな手じゃピアノは弾けない」とかなんとか言ってたね。だからその頃、ピアノを誰かから教わることはなかったんだ。
——どうやってピアノを練習してたの?
MR:誰か(先生が)いないかな、って考えるだけで2〜3年は過ぎてしまった。家には月謝を払うお金だってなかったし。だから専門の先生とかにも巡り会えず、誰からも何も教わらないまま時間が過ぎていったね。よくあるでしょ、何ができるかをモンモンと考えてるだけで時が経って、結局何もしないのと同じだった、みたいな。
——結局どのくらいの間ピアノを?
MR:11歳くらいまではピアノを弾いてたよ。11歳の頃にはバイオリン、それからリコーダー(縦笛)を始めた。バイオインを演奏するのは楽しかったよ。すごく好きになった。でも13か14になる頃、急に嫌気がさした。というのも、バイオリンケースを持って歩いてると、周囲から馬鹿にされたんだよ。ほら、男子ってのは大きくなれば皆オートバイとかそういう世界に夢中になるでしょ。そんなカンジで僕もその頃はちょっと音楽にウンザリするようになってしまった。そんな事よりも街に繰り出して、ボーリング場行って、みたいな、そういう遊びに夢中になりだす年頃だからね。おかしな話だけど(笑)。13〜14の頃、僕は知り合いに小銭を渡して、僕のバイオリンケースを代わりに持ってもらってたりしてたよ。僕が住んでた街は、もの凄く荒っぽい場所でもあったから。
——出身は?
MR:ヨークシャーのハルっていう所。ホントに荒っぽいバカげた連中が沢山いた所。誰もが理由なくケンカを始めたり、他の連中もそれを見るのが楽しみだったり、ていうような場所でね。そういえば今年のクリスマスにハルに帰省したんだけど、車を運転して、夜の10時かそこら、っていう時間に街に着いて、そこで最初に思いついたことは「あー、この街は(以前と)何もかわっちゃいない」てことだったね。楽しい帰省だったよ。
——ハルの「音楽シーン」っていうのは、どんなものだった?
MR:奇妙に思うだろうけど、僕の出身地のハルはイギリス北部の小さな街で、本当に「何もない」街なんだ。ワーキングクラスの為の荒っぽいクラブとか、客が酒を飲みながらビンゴゲームをやって大騒ぎするような店とか、そんな場しかない、っていう。もっと以前であれば、イギリスの北部にももっと良い「音楽シーン」があったんだけど、すっかり廃れてしまって。バンドをやってたような連中は、この街では仕事になるような場所がない、って気付いてたね。バンドマンは機材とか、機材車を揃えなきゃいけないし、支払いのために、何らかの別の仕事にも就く必要があるワケで。だからバンドマンはみな実際にライヴをやるその前の、仕事探しのほうが本当の「戦い」だったんだ(笑)。機材とか、機材車用のバンは、RAF(ROYAL AIR FORCE/英空軍)のキャンプとか、ワーキングクラス向けのクラブにいけば大抵の物は揃ったんだけど、支払いは大変だったよ。ライヴをやればやるほど、機材も機材車もどこかしらすぐガタが出るからね。でも、そんな環境でも演奏するのはやはり最高だった。いい経験をしたよ。いろんなタイプの観客を相手に、どんなふうに演奏すべきかとか、いい勉強になった。とはいえ、殆どの観客は皆ただのヨッパライなんだけどね(笑)。イギリスの、特に北部の人間は皆我を忘れてとにかく大量に酒を飲むからね。毎晩クラブに繰り出して、酔っぱらって、たまにおかしくなったりして、皆でシンガロング(※SING-ALONG:ヨーロッパの労働者階級の人々が、皆で肩を寄せ合ってワッサワッサと体を揺らしながら歌う、荒っぽいスタイルのワークソングを指す言葉ですが、80年代以降のOIパンク/ハードコア・パンク等でこのスタイルを取り入れたものが多いことで馴染みがある言葉かもしれません。というよりも、この伝統的なワーキングクラス文化を今の時代で目の当たりにする例としては、欧州のサッカーの応援歌のほうが日本でもよく知られるところだと思われます)で大騒ぎして、そんなのが大好きな人ばかりだから。


※ROSETTI LUCKY 7:ロゼッティはオランダのEGMOND社によるイギリス輸出用ブランドで、楽器自体はオランダ製。同ブランドはポール・マッカートニーがビートルズのメジャー・デビュー前に使用した「SOLID 7」という楽器で有名。LUCKY 7はフローティングPUをフロント位置にマウントしたアーチトップ。
——若い頃、ハルでは音楽を誰かから学ぶっていう機会はなかった?
MR:若い人達が「音楽を演奏したい」なんて言い出すだけで、奇妙に思われるような土地柄だよ。「ロックが好き」とか言おうものなら、街で知らない人からも呼び止められて、いきなり路上で殴られて、とかね。だから僕も、バイオリンの演奏をやめてしまったんだ。やめた他の理由に「バイオリンの弓」ってのもあった。バイオリンを教えてくれてたある人がいたんだけど、彼には悪いクセがあってね。教えた通りに運指しないのを見つけようものなら、怒り狂って僕の指を全部グルグル巻きにしてしまうんだ。ホント、嫌気がさしたね。
——まったく理解できない話だね(笑)。
MR:とにかく音楽の演奏はスッパリやめた。14か15の頃だね。1年間くらいは音楽と無縁だった。16か17の頃に、ギターを買うまでは、ね。
——どんなギターだったの?
MR:ロゼッティの「LUCKY 7」っていうギター。色は白。なかなか見た目はカッコいいギターだったよ。すっごく弦高は高かったけど(親指と人差し指で、どれだけ弦高があったか、を示しながら)。でも、生まれて初めてのエレキギターだったし、楽しかったよ。値段は14ポンド。毎週5シリングずつ分割で支払いをした(註:20シリング=1ポンドなので、56回の分割払い、という計算になる)
——エレキギターを入手して、どこかのバンドの一員になろうと思った?
MR:ギターを買ってそれほど間もない頃に、あるグループ(THE MARINERS)のギタリストとして演奏することになったんだ。楽器屋なんかにタムロしてて、顔見知りになったメンバー達がやってたバンドでね。彼らがどれだけ演奏ができるか、なんてこともまったく考えずに、とにかくバンドってものを皆で始めてみた。皆でアンプを用意したり、他の機材も皆で買ったり、なんてカンジで。


※WATKINS COPICAT:イギリス製のテープエコー・マシンとして最も有名だったのがワトキンス(WEM社)のCOPICAT。モデルチェンジを繰り返したロングセラー製品なのでいくつものバリエーションがあるが、写真の広告に写っているのは1959年仕様。
——他のメンバー、ミュージシャン達と出会えたのは、やっぱり嬉しかったでしょう?
MR:少なくとも僕にとっては、それまでの人生で最も素晴らしい瞬間だったね。どうやって演奏するかを学ぶ機会でもあった。アンプのスイッチをオンにするだけで、アンプから音が聴こえてくるだけで、本当にスリルを感じたんだよ。メンバーのひとりがエコー・ユニットを持ってて、そのエコー・マシンはワトキンスのCOPICATだったんだけど、それはもう凄まじい感動を覚えたね。そのバンドで最初に演奏した曲は「SHAZAM」(註:シャドウズの63年発表曲/下記動画参照)。あの曲、知ってる? 曲名って「SHAZAM」で合ってたよね? たしか「ダーン・ダーン・ダダンダーン・ダ・ダーン」っていう(リフを口ずさむ)…… ホントにスリリングだったのをよく覚えてるよ。スンゴク興奮した。うまく口で説明できないけど……
——いや、わかるよ。
MR:うまく編集しといてね。うん、とにかくリアルな興奮。初めて演奏したときの、本物の興奮を覚えてるよ。
——その最初のバンドでは、どのくらい活動を続けたの?
MR:正確には覚えてないな。そんなに長くはない。9ヶ月かそこら。パブで1〜2回のライヴをやったんだけど、バンドを始めたときはベースもいなかったし。ギター2人と、シンガーとドラム。ずっとベースはナシでやってた。でもポップ・ソングを演奏する時、ベースがいるかどうかなんてことは大した問題ではない、てカンジだった。誰ひとりとして「ベースがいない。困ったなあ」なんて決して感じてなかったね(笑)。ドラムキットも、スネアと、バスドラと、シンバル1つと、タム1つ。それと、小さなアンプ2つ、スピーカー2つ。もし、演奏者がもっと多い場合は、同じその小さなアンプに皆プラグインしてた。だから、後になってバンドにベース・プレイヤーが参加するようになってからは、もっと大きなアンプが必要だ、ってことになって、VOXのAC30を2台購入した。ヴォーカル・マイクもそこ(AC30)にプラグインしてたね。結局、ヴォーカル、ベース、ギター2本、それらを全部、2台のAC30で鳴らしてた。ちょっと想像できないんだけど、前にいた観客にはどんなふうに聴こえてたんだろうね。ステージの上では結構酷い音だったよ(笑)。ただ爆音、ていうだけ。そのくらいしか覚えてないなあ。


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6.06.2013

Mick Ronson Interview - Introduction

 
 ところで皆さんは、買い物ってお好きですか? こちらの高揚した気分も理解せず「あんたバカじゃないの。何よそんなモン買ってきて。一体何に使うの。同じモン何個も持ってるじゃない」とか、そんな恐ろしいセリフを平然と吐く人は(例えば奥様だったり親御さんだったり上司だったり世帯主だったりと)得てして「目上の人」と相場が決まっているものですが(笑)、以下、思うところがちょっとありまして、「お買い物」に関して2題ほど書きたいと思います。

  デヴィッド・ボウイとミック・ロンソン。2人はとても対照的なキャラクターを持っています。共に「ジギー・スターダスト」関連の作品群を形づくった重要なパートナー同士ではありますが、ボウイは天才肌で、頭がキレキレに切れて、繊細で、理論的。ミック・ロンソンは暴力的で、マッチョで、イケイケの体育会系で、感覚的。個人的にはそんな風に感じています。異論もあるかとは思いますが、この2人はステージ上でも、その対照的なキャラをそのまま演じていることは、多くの方がご承知かと思います。

 で、ミック・ロンソンの場合。基本的にモノに執着するタイプではなかったようなんですが、1976年のある時期、幾度となく「あーギター欲しい!」と繰り返す時期がありました。すっごく乱暴にその時の理由を書いてしまえば「ギターが弾きたくて弾きたくてたまらない」という欲求が爆発寸前、という時期だったようなんです。こういうのって、他人からは客観的に理解できない類い、ですよね。でも本人はその買い物を通じて、「自分の未来を買う」とでも言えばいいのでしょうか、費用対効果では語る事のできない、計り知れない高揚感の中にいることが推察されます。

 これまで当ブログでは彼の使用機材に関して、病的なまでに執拗に(笑)あーだこーだとウンチクを書いてきましたが、先ほど「ミック・ロンソン本人はそんなにこだわるタイプではない」と指摘したのと同様に、果たして本人はどんな機材をどう考えて使っていたか、は、ファンにとってどんな研究よりも何よりも重要な資料たりえる、とも思っています。

 若いころに酷く貧乏なバンドマン生活を送り、絶望のドン底にありながらも、小銭が手に入るとレスポール・カスタムを買ってしまって、結果借金を増やしてしまう。そんな若い頃の「買い物感覚」もそうですが、前述したように、ちょっと気分がロマンティック浮かれモードになってしまうと「ギター屋に行きたい!」とうわ言のように(笑)繰り返してしまう、そんなチャメっ気もたっぷりの人なんですよね。ロンソンは。

 当方はロンソンに直接会ったことはありません。残念ですが今後会う事もありません。ですが、76年当時ミック・ロンソンに直に会い、「ギター欲しい!」と散々繰り返し同じ台詞を聞かされた人がいます。
 彼はスティーヴ・ローゼンという音楽ライターさんで、当時アメリカの「ギター・プレイヤー」という雑誌の取材でロンソンにインタビューをした人です。この方はいわゆる業界の重鎮みたいな方で、40年近くにわたって多くの伝説的なミュージシャンに取材した方です。ビートルズのメンバーや、マイケル・ジャクソンにも取材した経験をお持ちです(彼の近刊は、ランディー・ローズの評伝本となります)。

 「ギター・プレイヤー」誌はその名の通り、ギタリスト向けの、やや機材に重きを置いた雑誌なので、いわゆる伝説的なロックンロール・ヒストリーでよく出てくる「セックス、ドラッグ、アルコール&パーリナイ!」みたいな(笑)ランチキ騒ぎのエピソードは一切出てくる事がありませんが、今日の視点から見れば、むしろこっちのほうが重要な資料足り得るもの、と言えるのではないでしょうか。

 ミック・ロンソンが自身の使用機材を語るインタビューとしては、既に何度も当ブログでも指摘しましたが、73年6月9日付の英「メロディー・メイカー」紙のものがとても有名です。が、その文献は、ほんの200ワードほどしかない小さなコラム程度の記事です。
 その他に同様に「ロンソンが自分の機材を語る」インタビューとしてとても有名なものに、1976年12月に発表された、前述のスティーヴ・ローゼン氏によるロング・インタビューがあります。ロンソン本人のいい加減な(笑)楽器へのコダワリもあって、それほどガチガチに機材論を繰り広げるモノではありませんが、他にはこういう文献はありません。

 さてさて、お前は一体長々と何を書いてるんだ?と思うかもしれませんが、ここでようやく「2つ目のお買い物」の話となります。
 そのスティーヴ・ローゼンさんが取材した、1976年のミック・ロンソンのインタビュー記事を、先日「購入」しました。もちろんローゼン氏本人からです。別にどっかに売りさばくつもりで買ったとかいうワケではなくて、単純に、このブログに掲載しようと思って購入しました(笑)。
 当方は無名ながらも日本でライター業もやったりしてるので、現在の日本の音楽誌事情に関しては察しがついてるんです。こんな古いインタビュー記事、しかもミック・ロンソンというタマでは、日本の商業ベースの音楽雑誌/音楽書籍には今後載る機会はほぼない(!)でしょう。そんなことに気付いても「ああ、モッタイナイ!」と思うのは、残念ながら日本ではほんとに僅かな数の人しかいません。そんな事情もよく判っております。

 ただし、ああモッタイナイ! そんな状況を絶対に我慢できない! というバカが日本にひとり居ました。それは当方本人のことなんですが(笑)。この1976年のミック・ロンソン・インタビューを、次週以降何度かにわけて当ブログで全文公開します。既に英語の原文としては過去にもいくつかのサイトで読むことのできた文献ですが、オフィシャルに(当然です。金払ってますからね、コッチは。笑)掲載されるのは、おそらく37年振り、ということになります。

 加えて今回の掲載にあたっては、37年前に「ギター・プレイヤー」にて誌面に掲載された分のみならず、スティーヴ・ローゼン氏本人が当時の録音テープを再度聞き直し、雑誌では掲載されなかった部分も含めて、丸ごと全部をQ&A方式で書き起こしてくれました。ですから無駄話とか、話題が繰り返す箇所とか、話がかみ合ってないとかそういう部分もありますが、全部を通して読んだほうが、よりミック・ロンソンという人のキャラを理解できるだろう、とも思っています。とても拙い日本語訳で恐縮ですが、それを当方が翻訳したもの、となります。

 とまあそういうワケで、下の写真はロンソンに取材した時のローゼン氏とロンソン、という写真です。ミック・ロンソン・インタビュー、現在鋭意翻訳格闘中ですが、次週以降をご期待下さい。



Young Person's Guide to
David Bowie / Mick Ronson
1970 - 1974


David Bowie / The Man Who Sold The World(1970)ロンソンがその殆どのアレンジをしたと言われるヘヴィーでダークなギター・アルバム。ベース&プロデュースはトニー・ヴィスコンティ。今は英オリジナルの「女装ジャケ」でCD化。



David Bowie / Hunky Dory (1971)ゴス&ドリーミー、フォーキーでスペイシー、というキャンプ感覚溢れる耽美なアルバム。ロンソンがゴリゴリのハードエッジ・ギターを唸らせる「QUEEN BITCH」収録。



David Bowie / The Rise and Fall of Ziggy Stardust and The Spiders From Mars (1972)ボウイの代表作。持ってない人は今すぐどこかでポチって下さいね。ロンソンのギター・プレイで最も有名なものは、間違いなく本作でのプレイとなります。ジギー・スターダストという架空のキャラが主人公のコンセプト・アルバム。



David Bowie / Aladdin Sane (1973)より凶暴性を帯びたロンソンの破天荒ギターが唸る大傑作。グラム・ロック史上最高傑作「JEAN GENIE」やストーンズ「夜をぶっとばせ」の高速カヴァーも収録。ジャケも最高。



David Bowie / Ziggy Stardust - The Motion Picture 73年7月のジギー・スターダストの引退コンサートを収録したライヴ盤。現在は(近年ヴィスコンティがリミックスしなおした)30周年記念版のほうが入手は容易かも。



David Bowie / Pin Ups (1973)ジギー引退後にフランスで録音された、60年代ブリティシュ・ビートの懐メロ・カヴァー集。本作を最後に、ミック・ロンソンはボウイと袂を分かつことになりますが、ノリノリで冴えまくるギター・プレイは必聴。



Mick Ronson / Slaughter On 10th Avenue(1974)ミック・ロンソンのソロ・デビュー作。バックはスパイダースの面々。タイトル曲はもちろんヴェンチャーズで有名なギター・インスト・バラードで、当時PVも制作されました。



Mick Ronson / Play Don't Worry(1975)モット・ザ・フープルへの加入&脱退を経て、その後発表されたソロ2作目。断片的に録音された素材で編集されたアルバムで、生前のソロ作品としては最後のアルバムとなった。



David Bowie / Black Tie White Noise(1993)おまけの1枚。ロンソンが生前最後に残した(と思われる)セッションは、旧友ボウイとの20年振りの共同作業でした。この録音の時は既にロンソンも自身の病と闘いながら、という時期でしたが、ロンソンはアルバムの発売直後に亡くなっています。アルバム中ではクリーム「I FEEL FREE」のカヴァーのみでクレジットされていますが、以前動画でも紹介した通り「I KNOW IT'S GONNA HAPPEN SOMEDAY」のセッションでもロンソンはギターを弾きました(そのテイクはボツになりましたが)。