5.16.2015

Robert Fripp 1981 Interview - Part 2

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, 1981
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——でも、またやることにした。
RF:ディシプリンというバンド名で一晩400ポンドを稼ぐか、もしくはキング・クリムゾンというバンド名で一晩1000ポンドを稼ぐか、そういう選択肢を与えられたことがあってね。私は「このバンドはディシプリンという名のバンドなんだ」と言ったよ。しかしその後の1週間程の間で、3ピース編成でのリハーサルを初めてみたのだが、その時に気付いたんだ。バンドとは何か、ということ。そしてその時演奏していたバンドとはどんなものだったか、ということ。これから出発するこのバンドの裏側で吹き出しているポテンシャルと、それを成し遂げる意味を。



※78年から80年にかけて、フリップ先生はデボラ・ハリー率いるブロンディーと何度も共演しています。この時期ブロンディーと「SISTER MIDNIGHT」とか「HEROES」とかボウイ楽曲を演奏する機会も多く、最近再結成したブロンディーも「HEROES」をレパートリーにしたりしています。それにしても上の動画、あのフリップ先生がデボラ・ハリーとイチャついてますね。何考えてんでしょうか先生は。
 そしてそれはバンド自身の生命を決定付ける文化的なアイコンが生まれる場所でもある。ブロンディーという単語はデボラ・ハリーを指すものではなく、ビートルズという単語はジョン、ポール、ジョージ、リンゴを指す言葉ではない。つまりそいういうことだ。同時に1個人としてのロバート・フリップは、今までけしてやらなかったことを、これからやろうとしている。もし君がこれからステージに上がって、聴衆の前で何か役割を担うと覚悟を決めたとき、エネルギーがわき起こってくるものだろう? どんな手法で、何を使って、と考える時に、エネルギーはわき起こるものだ。
——そのエネルギーをあなたは再び手にしたと?
RF:キング・クリムゾンにとってもね。私はこのバンドにも、そして私にもそういうポテンシャルがあるのだ、と気付くようになった。ツアーに出始めてすぐにビル・ブラフォードが私に「我々にはあの名前を使う権利があるよね」と言ってきた。そして「我々はキング・クリムゾンだ」と名乗る事になんら問題は存在しなかった。他の誰もキング・クリムゾンを再結成することはできないし、キング・クリムゾンという名のバンドを新たに作ることもできない。このバンドこそが純粋にキング・クリムゾンなのだ。皆がすべきことは、アルバムを聞いて、そしてこのバンドを見て欲しい。そうすればすべての議論は終焉を迎えるだろう。そう私は思うね。
——その結果はハッピーなもの、と確信する?
RF:いやいやそんなのは「神のみぞ知る」だよ。私に何ができるって? もし血まみれの結末が見えていてそこに関与するかもしれないというのなら、もちろん私はこんな行動には出ないだろう。この成り行きには満足してる。ああ、たしかにハッピーだし、まあテキトーに言うのならその質問の答えはイエスだ。我々が今成していることは正しいと感じているが、この先どういう行動に出るかなどと今我々が予測することはとてもできないのだ。
——昔のキング・クリムゾンのレコードからなにかしらの要素をここで用いようとはしてみた?
RF:うーん、もちろん昔のクリムゾンと関連があるポイントというのは存在するだろう。なぜならそれは「伝統」だからね。伝統というものは事を成し遂げる際にひとつの指針となるものだ。仕事の手法、それは音楽の構成とかそういったものに関連して特定されるようなものだから。
——その「音楽の構成」というのがどういうもの?
RF:たとえばキング・クリムゾンというのはいつも折衷主義だ。そしていつも素晴らしいプレイヤーによって構成されていて、いつも機動性に富む。今の我々にはそれが全て存在している。ただし、歴史を単純におさらいするような存在では、それはバンドとは言えない。
——バンドではない?
RF:ああ。このバンドは1981年に存在するバンドで、我々が音楽的に向かう次のステップというのはかなりの危険を伴うものだ。よりインプロヴィゼイションを多用する方向となるだろう。そしてその次に、形式として、よりリズミックで、パーカッシヴで、耳障りで、ペンタトニックを多用したメタリックなノイズがふんだんに盛り込まれたものになるだろう。それはあくまで「音楽的な次のステップ」として想定しているもので、かなりフリーキーなものだ。次の月曜から我々はロンドンでリハーサルに入る。丁度今日から1週間後だね。
——ツアーに出る予定?
RF:えっと、既に我々はある意味ツアー中だとも言える。ワーナー・ブラザーズ(註:再結成クリムゾンは、イギリスではEGレコード、アメリカではワーナー・ブラザーズ、その他の国ではバージン・レコードから発売されています)を訪れて、我々がこのプロジェクトに関して言うべきことを全て彼らに知ってもらう必要がある。そしてその作業というのはまさに旅に出るような途方もない真摯さを求められるものなのだ。今や全てのレコード会社は売り出すべきバンドを既に保持し、売り出すべき優先順位を既に確定させている。我々にはその優先順位はまわってこない。なぜならこういう場合のレコード会社のサポートというものは、我々が何をしているか、それを見た人の偏見に基づくものだから。バンドというものはそのバンドのレベルに見合ったよいサポートがあれば良しと思われるが、レベル以上に過剰にプッシュされてしまうと良しとは思われない。ワーナー・ブラザーズに対して願うことは、「キング・クリムゾンを見たら腰を抜かすほど驚くだろうからその準備をしておけ」ということだね。
——ワーナー・ブラザーズはあなたたちにあまり期待していない?
RF:もし倉庫から急に5万枚もの在庫が消えてしまって「在庫があと50枚しかありません!」なんてことになれば、ツアーが終わるころにはすぐさま15万枚ほどの売り上げを上げる事も見込めるだろう。今我々は希望を持ってここ(米国)にいるし、彼らには我々が必要としている音楽マーケットにおけるより良いサポートを期待して、それを願うためにここにいる。
——ワーナー・ブラザーズにはキング・クリムゾンがどんなバンドかを理解してもらえた、と思う?
RF:もし誰か私の言ってることを理解してくれる人がワーナー・ブラザーズのとある制作部門で働いていたとしたら、その部門はレコード業界で最良の制作部門になるだろう、ということだ。この業界には大量に人が存在し、あらゆるジャッジがそこにはある。ワーナー・ブラザーズは決して3番手に甘んじるような会社ではなく、そんな低い位置にいる会社であるにはあまりに非効率と言えるほど巨大な会社だ。彼らは業界のトップに君臨するレベルにある。ワーナー・ブラザーズが25000枚のセールスを考えるような会社であればそれはあまりに非効率的だし、私も考えを改めるだろう。
——また再びキング・クリムゾンでやろう、となったときに、ミュージシャン達の反応はどんなものだった?
RF:いや、別に「さあキング・クリムゾンの再結成だぞ」なんてメンバーに電話して言ったわけじゃない。私が言ったのは「バンドに関して、ひとつアイデアがあるんだ。君も興味を持つだろうと思うのだけど、言ってみてもいいかな?」と。彼らの返事は「もちろん」。エイドリアン・ブリューには電話して相談した。そういえばビル・ブラフォードにも朝の10時くらいに電話をしたな。エイドリアンは誠実で、常識があって、ドラックとかアルコールに関して一切問題がない男だ。既婚で、家族を重んじるナイスガイ。ところが朝の10時に彼に電話したところ「んーーーーー、んーーーー」と繰り替えすばかりだった。というのも、その前夜にトーキング・ヘッズがロンドンでライヴをやってて、ライヴの後に皆でロシアン・レストランへ繰り出してしこたまウォッカを楽しんだ、とのことだった。それで私はその朝の電話口で「なあエイドリアン、ちょっとアイデアがあるんだけど」と言ったが、彼は「んーーーーー、んーーーー」と繰り返しすばかりだ。電話の終わりのほうではもう彼は死んでたね。なので私は午後になってもう一度電話をかけ直すハメになった。


※再結成クリムゾンはステージでいつも「太陽と戦慄パート2」をレパートリーとして披露しています。ええ、フリップ先生が言うまでもなく、トニー・レヴィンのプレイは凄まじいですよね。動画は82年のものなので「聴いたことも弾いたこともない」という時期には当たりませんが(笑)。
——トニー・レヴィンの場合はどう?
RF:トニーはこのバンドに関わりたくないのではないか、と思っていたんだ。というのも、彼はクリムゾンのメンバーだったことがなかったから。まず81年の2月にビルと私がニューヨークに赴き、まずエイドリアンに会った。ビルはエイドリアンと一緒にステージを経験したことがあって、トーキング・ヘッズでの彼のプレイをとても気に入っていたから。ただこの時は、エイドリアンと会って、一緒にリハでプレイしてみた、というだけだった。で、ニューヨーク滞在の3日目にトニーがその場にやってきた。この男だ!と思ったね。彼もただリハに参加して、プレイして、颯爽と去って行ったが。それまで一度も「太陽と戦慄パート2」を演奏したこともないし、聴いたことさえないと言ってた。しかしそのリハーサルでは彼のプレイは他の誰よりも素晴らしいものだった。ただ曲をコピーして演奏しただけだったのだが。
——それでトニー・レヴィンこそが最適なベーシストだと分かった?
RF:リハの4日目の終わりのほうで、エイドリアンが言ったんだ。「なあ、僕はこのバンドと一緒にはやっていけない」と。彼は実存主義的な、アーティスティックなジレンマというものを抱えていたんだ。それは長らくサイドマンとして活動していたから、固定的なバンドメンバーにはなれないと考えていたようだ。彼は自分のソロ作品をやる必要もあったし、そこでは彼は自分のバンドを持っていたし。なのでエイドリアンは集中できなかった。トニーはいろんなプロジェクトに関与していたが、とりあえず全部やってみて、あとから俯瞰でこのバンドを考えてみる、というカンジだった。自分自身の立ち位置をそれほど重要視してないようだったね。リハの翌週にパリにいるから、そこから私に電話をかけてくれる、とのことだった。そんなことで3月1日に私はイギリスに戻った。3月の半ばにはまたニューヨークに戻る準備をすることにした。そうした重要な人間関係を築くためにね。


※ザッパ・バンドでプロデビュー、その後デヴィッド・ボウイ・バンドやトーキング・ヘッズに参加したエイドリアン・ブリューは82年にソロ・デビュー作『LONE RHINO』を発表しています。録音は81年の夏、つまり丁度このインタビューが行なわれた辺りのことになります。既に忙しい身だったブリューですから、クリムゾン参加は当然悩んだことと思われます。
——全部が宙に浮いてしまった、というカンジ?
RF:イギリスに戻ってから、エイドリアンが「バンドには参加しない」と言ってきた。トニーはパリで誰かのアルバムの録音に参加していて、そこから電話をかけてきて「バンドには参加しない」と言ってきた。それで私は3月中旬までイギリスに留まり、フェアで、熟考に値するコストで、この冒険をなんとか成就できないだろうかと私なりに考えた。まあ最初からこのバンドが簡単に流れに乗るだろうとは一瞬たりと考えたことはなかったがね。このバンドはメンバー個々のコスト面での条件がとても高いんだ。
——てっきり「歌えるベーシスト」が条件かと思ってましたが。
RF:おっと、たしかにそれはあったかも。でもいままでそんなこと考えたこともなかったよ。
——そういう人(歌えるベーシスト)と何度も組んでたでしょう?
RF:そうだったかな? よく分からないな。いやいや、そんなことはないな。そんなことはない。そう、確かに歌うベーシストと一緒にやってたな。サックスを吹きながら歌えるプレイヤーはいないだろうか、とか、バイオリンを弾きながら同時に歌えるプレイヤーはいないだろうかと考えたこともあったかな。私には歌は歌えないので、ではベーシストが歌う事にしよう、という単純な流れだよ。
——歌えるベーシストを意識的に探していたわけじゃなかった、と?
RF:その通り。


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