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8.09.2015

Saying goodbye to an old friend (Part.3)


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 その動画はもう今から1年か2年か、たしかそれくらい前に作ってYOUTUBEにアップしたものだった。しかしまったく予想もしてないある日、「YOUTUBEで動画を見ました。最高です。ロンソンって最高ですよね。ところでそのギター、どうやったら僕は入手することができますか?」という質問をある人物から受け取った。

 実は私の元には毎日のようにそんなメールが舞い込んでくる。私の返事はいつも決まっていて、「そのつもりはないし、売ろうと考えたこともない」。莫大な金額を手放すことと同じだと考えればいいだろう。莫大な・・・いや、間違いなく馬鹿げた金額といえる。何年も何年も、沢山の人物から「ギターを売ってくれ」という質問を受け続けてきた。そのオファー額は得てしてアホみたいに安い金額提示だった。ボブ・ロックは「5万ドルでどうだ?」とオファーしてきた。ボブ、無理だよ。

 だが今回、「あのギターとマーシャル・メジャー、2つでいくらですか?」と連絡してきたその彼が実際どのくらい真剣に考えているのか、私のほうでも調べてみることにした。そして、彼が本気だったということを知る。彼は本当に裕福な人物で、(モナコの)モンテカルロにあるとんでもない家に住む人物だった。彼にとって支払う金額それ自体はあまり問題ではないようだ。またそれと同時に、この彼は私にコンタクトしてきた人々の中で唯一「あ、まるでオレみたいだな」と感じることの出来る人物でもあった。私が夢中になって探し、入手したあの時。それとまったく同じ動機・理由で、彼もロンソンのギターを探し出し、コンタクトしてきた人物だった。

 交渉が始まると、話は早かった。私は彼に自分の提示額を伝えた。その金額を知っても、まるで長年の顔なじみである隣人と挨拶でもするかのように、何事もないスムースさでその提示を受け入れた。私はふと我に返り、別な金額を提示した。やはりマーシャルのアンプは今回のディールからは外そうと考えたのだ。彼は「交渉成立ですね。お金は指定の口座に振り込みます」と言った。
 その日の晩、私は荒れ狂った。

 その時私を襲った酷く激しい落胆と絶望感を、上手く説明することはできない。まるで溺愛する恋人と死別したかのような絶望。空虚で暗黒の空間。今、自分はなんてことをしでかしてしまったんだろう? こんな風に書いてしまうと、多くの人から見れば「あら、シンミリしちゃったんだね、ドラマチックに思えたんだね、思い上がりだね」なんて思われるであろうことも分かってる。しかし、何であっても・・・ もしあなたが私の変わりにこの立場になることが出来たとしても、あなたは決してその役目を引き受けることはないだろう。私が受けた絶望感・・・ とにかく読み続けてくれ。私の目からダラダラと垂れるもの、そんなものは誰も見たくないだろう(笑)。とにかく・・・おお神様・・・

 たしかに私は自分の店舗を大きくするために新規物件の契約をしたばかりだった。この取引が終われば私の状況は変わる——すべての借金は今回の金でカタを付けられる。すべての出来事は、起こるべきタイミングを見計らったかのように起こるものだ。しかし私はもうケースをあけてあのギターを見ることすら出来なくなる。私はこのギターを裏切った、そんな感慨さえよぎる。どんな言葉を使ってこのギターのことを語っても私の擁護にはならない。私は涙を流しながら、イアン・ハンターに電話し、彼に今回の取引に関して伝えた。するとイアンは笑いながらこう言った——「どうしたオイ、気でも狂ったか? 売っちゃえ売っちゃえ! そして2度とそのギターのことを考えるな。今までお前はそうやって来ただろう? これは投資なんだ。そんな投資行動がお前に沢山の金をもたらしてきたんだろう? なあアンチャン!」
イアンは私の行動に同意してくれた、そのことに深く感謝しながらも、「もし自分がこのギターを手放さなかったのなら」、そういう思いがよぎる。ただ、今回ギターを買った彼が「正しい人物」であったことは自分も分かっている。正しい金額に同意し、正しいタイミングで購入してくれた。私が言いたいのは「タイミング」それに尽きる。それでもまだ私は絶望の縁をもがいている。

 すべての出来事には、今回の出来事のようにひとつの「窓」が用意されているものだ。そして今、ひとつの窓が静かに閉じようとしている。ミック・ロンソンのようなアーティストに関するアイテムを所有するという行為に対する情熱の扉が、今静かに閉まろうとしている。70年代に少年だった人間が成長し大人になり、子を持ち、またその子は子を持つだろう・・・ 果たしてその子孫たちはミック・ロンソンからの贈り物を(私同様に)崇めてくれるのだろうか? その子孫達はミックが使用した機材に大金を払って所持したいと考えるのだろうか?

 実は今回の購入者がコンタクトを取ってきたその数週間前に、私はスージー・ロンソンと会って話をする機会があった。実は彼女も、ミック・ロンソンが使っていたブルーのテレキャスターを手放そうかどうしようか悩んでいたとのことで、どうすべきか、一体どれくらいの価値があると思うか、と私に相談してきたのだ。彼女もまた、ひとつの「窓」が閉じようとしていることを理解していた。そんなこともあったせいで、私も自分が何を如何にすべきか、その時が来たのではないか、と思うようになった。なんといってもあのスージー・ロンソンでさえそうなのだから! それまでスージーは「もしあなたがあのレスポールを売ろうと思った時が来たのなら、真っ先に私に知らせてね」と何度も何度もお願いしていた人なのに。そのお願いをされる度に私は「ああもちろん。わかってる」と返事をしてきた。そうすべきだし自分もそのつもりだった。だが今回の購入者と同意した金額と、スージーが提示してきた金額には大きな開きがあった——ミック・ロックが5万ドルで買い取りたいと言ってる、という話を持ってきたのはスージーだった。彼女はもちろんそのギターの「在るべき場所」の正解を知っている人物だということは分かっているし、今回の取引が彼女の予測のおよぶエリアから完全に離れた場所で行なわれた取引でもあった。もし仮に彼女を介して誰かと取引しても、もしくは(ミック・ロックと)直接やり取りをしたとしても、その金額には大差なかっただろう。今でも私はこの件のことを考えるだけで凄まじい恐怖にかられるのだが、私が「ある人物にギターを売ろうと思う」とスージーに話したとき、彼女は同意すると同時に、私の置かれた状況をも理解してくれた。そのことに、安堵した。

 数日経って、私の銀行口座に代金が振り込まれた。私の銀行口座の履歴では経験したこともない大金だった。確かにとても印象的な出来事であり、これで私個人が金銭的な問題から解放されるという多少の安心感を知りながらも、正直に言って、嬉しくもなく、お祝いする気にもなれなかった。「私は一体何をしでかしたのか」。そればかりが頭をよぎった。代金が届いたその週の終わりには、発送に際しての保険をどうするかという交渉を購入者とすることになった。いままで誰もその点には触れなかった。1本のギターを発送するのに、どの会社がそんな(代金通りの巨額な)輸送保険を引き受けるというのだろうか? 結果、私は「旅行中に起きたことは、受取人が責を追う」という条項を加えることにして、保険をかけることができた。

 そして日曜の午後、私は地下のスタジオルームに降りて行き、部屋の真ん中へとそのギターのケースを運び出した。さよならを言う時がやってきた。ビデオカメラをセットし、ギターをアンプにプラグインし、私は最後の「ZIGGY STARDUST」を弾いた。曲が終わりにさしかかろうとすると、私はもう泣き出していた。ギターにお別れのキスをして、ケースにしまい、ケースを閉じた。もはやこれを開けることもない。翌月曜日にはもうそのギターはFEDEXによって引き取られていった。大西洋を越えたところにある、新しい家の元へ。このギターは良い嫁ぎ先を見つけた、と信じている。

 そう、私はある期間、この名誉あるギターを実際に所持していた。このギターに関して多くを語ることができる数少ない人物であった、という事実も私の名誉だった。ギターに関してよかれと思うことをやってきたし、そう扱ってきた。時が来て、私はこのバトンをリレーすることにした。私がこの取引を終えて得ることが出来たものは、新しいオーナーがこのギターを手に入れて本当に喜んでいるという事実。彼は新しい家に到着したそのギターの写真を私に送ってくれた。私が実家の地下の部屋でオーストラリアからの荷物をオープンしたあの記憶を、まざまざと思い出すことになった。
 この文章の最後に追記として。私からこのギターを購入したその新しい所有者は、自分が何者であるかを隠す必要はない、と言ってきた。もちろん彼もまた、熱心なミック・ロンソン・ファンでもある。彼の名はサイモン・ドラン。私の知る限り、とてもクールな人物だ。あのギターは良い伴侶を得た。

2015年4月29日 リック・テデスコ




(後記)ちなみにサイモン・ドランさんは1969年生まれ、英国出身モナコ在住の投資家/会計士で、ルマン24時間耐久レースにも参加するレーサーでもあります。ご自身がツイッターでこの件を先に公表しましたが、ネット上で「ホントかどうか」と騒がれて、それを受けてリック・テデスコ氏が上記文を公表した、という経緯になります。文中に細かな註釈を入れようかなとも思ったのですが、それをする気にもなれませんでした。「最後のZIGGY STARDUST」の動画をみて、深く入れ込んでしまったもので。音楽を通して得られる夢とか現実とか人生とか、この動画にはいろいろなものが凝縮されてますよね。

Text by Rick Tedesco (Guitar Hangar) / Translated by Tats Ohisa. ©2015 Rick Tedesco / Buzz the Fuzz

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8.07.2015

Saying goodbye to an old friend (Part.2)

 
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 それから1週間程の間、私は他の用事で奔走しなければならなかった。そんなある日、2時間ほどの外出後に私が家に戻ってきた時、デカい箱がウチのガレージのドア前にドンと置いてあった。ラベルを見ると「オーストラリアからの荷物」と書いてある。オーマイガッ。UPSはミック・ロンソンのあのギターを、ガレージのドア前に立てかけたまま行ってしまったのか!

 本当にスペシャルな瞬間。完全に興奮し切った状態で、魔法にでもかけられたような瞬間。その瞬間の記憶が、その後も決して消え焦ることもない、そんな特別な瞬間。人生に1度か2度くらいは、誰にでもあるものだろう。目を閉じてその時を思い返せば、一瞬にしてその瞬間が生々しく蘇り、タイムスリップできる、という記憶。この時の記憶は、そんなカンジのものだ。

 今回の話の裏話。何年か前、両親が所持していた家を私が買い取ることにしたのだが、その家の地下にはスペースがあって、私はそこでギターのオンラインショップを開業することにした。この家は私の生家であり、その地下のスペースとは1974年、まだ子供だった私がデヴィッド・ボウイを「発見」した場所でもある。「イン・コンサート」というテレビ番組で放映されていたジギー・スターダストのライヴを、13歳の少年が目を見開いて食い入るように画面にかじりついたその場所でもある。

 その地下のスペースに座り、画面の中でミック・ロンソンがプレイするギターを見て、「自分でもギターが弾けるようになりたい!」と思い立ったその場所。そしてその場所で、私はオーストラリアからやってきた荷物を開き、その中にはあのミック・ロンソンのギターが入っていた。まさに目もくらむような瞬間。控えめに言っても、とても現実のこととは思えない、魔法の瞬間。クリスマスの朝にプレゼント・ボックスを開ける子供のような気分で、私は荷物を開封した。とても注意深く、ギターがくるまれたプチプチ(緩衝剤)を丁寧に引きはがした。えっ、うそ、ケースないの? 頼むよ神様・・・ ネックが折れてないことを祈る・・・ 実際にネックは折れてはいなかった。ギターはちゃんとギターの形のままで到着した。

 到着した時、弦はもうズタボロに錆びていた。そのサビサビの弦は丁寧にギターから外して、それらを丁寧に封筒に入れ、保管することにした。指板を綺麗に掃除し、フレットを磨き直した。そして新しい弦を装着した。トラスロッドを調整して、早速プラグイン。んーーーー、音が出ない。クソッ。ジャックプレートを外して、接点を綺麗に磨いてみた。すると「まだ生きてますよ!」とでも主張せんばかりに、このギターは吠えた。早速私は「ZIGGY STARDUST」を弾いてみた。何万回と写真に撮影され掲載されたあのギター。その写真を通して私が何万回も凝視したそのギター。再度「ZIGGY STARDUST」を弾いてみた。知る限りのボウイの楽曲を、次々と、延々と演奏し続けた。そして再びギターに目をやる。ワオ!

 その何日か後、地元のクラブで私のライヴがあり、そこにはイアン・ハンターと彼の奥さんトゥルーディーも来ていた。そこで私はイアンに例のギターを見せた。ギターにはミックのサインも入っていた。イアンは「ああ、間違いなくミックの文字だね」と言った。ライヴの最初のセットで私はそのギターを使用した。私がステージから降りると、イアンは「まるでミック・ロンソンが押し寄せてくるかのように感じたよ。ギターの音を通してね」と言って笑った。おかしなことだが、私自身もそう感じていた。考えれば馬鹿馬鹿しい話だが、間違いなくソレは舞い降りてきたことを思い出す。ただの子供のように、自分が愛した曲をプレイしただけなのに。
 数ヶ月にわたって保持し、何度かのライヴで何度か演奏したそのギター。しかしその後私はこのギターはロックンロールの殿堂(ROCK'N ROLL HALL OF FAME/以下R&RHOF)に展示されるべき、と決意した。もちろんR&RHOFにその気があれば、の話だが。それはミック・ロンソンのために私ができる数少ない義務だろう、と感じたのだ。

 R&RHOFの展示物責任者、ハワード・クレイマーに電話をしてみることにした。彼の電話番号は私のバンド仲間でもあり、アリス・クーパー・バンドのベーシスト(1969〜1974年)でもあるデニス・ダナウェイ(彼は自分のベースをR&RHOFに寄贈したことがあった)がたまたま知ってて教えてくれた。ハワードの秘書が電話で対応してくれて、私の電話番号とともに、「私はミック・ロンソンがボウイと共演していた時期に使用したギターを持っている。R&RHOFはこのギターを展示するつもりはあるか?」というメッセージを残した。秘書の彼女はこのメッセージをハワードに伝える約束をしてくれた。まさか、と思える程あっという間に返信の電話がやってきた。ハワード本人からだった。彼はそのギターを是非展示したい、という。彼はマジだった。

 その後何度かの交渉を経て、私はそのギターを2年間R&RHOFに貸し出すことにした。後からハワードは、今までR&RHOFに展示されてきた全てのギターに関して教えてくれた。いずれも、見るものの誰もが引き寄せられ、思い出すことが出来るようなものばかり。皆「ああこのギターは・・・」とすぐにコメントを思いつくようなモノばかり。ミックは数多くのミュージシャンと共演し、数多くのプロジェクトでこのギターを使用した。私はミックのギターと共に、イアン・ハンターがグラム・ロック期に使用した「H型」のダブルネック・ギターも展示してもらうことにした。モット・ザ・フープルのグラム・ロック期。それは私もハワードも、共に夢中になり熱狂したアイコンだった。

 それから2年が経ち、私はまた再びあのギターを自分の手に持ちたいな、と考えるようになった。何と言っても2年もの間、私は寂しい思いをしてきたのだから。実はその間にもR&RHOFと私の間では、あのギターにいくら保険をかけるべきか、という問題で意見の違いがあったりもした。結果、2年の契約を終えてギターは再び私のもとへ戻ってきた。その後何年間かにわたり、自分のプロジェクトで実際にそれを使用した。前述のデニス・ダナウェイのアルバム『BONES FROM THE YARD』(2005年)でも使用した。イアン・ハンターのアルバム『WHEN I'M PRESIDENT』(2012年)でも使用した。デヴィッド・ボウイのトリビュート・アルバム『HERO: THE MAIN MAN RECORDS TRIBUTE TO DAVID BOWIE』(2007年)に収録された「MOONAGE DAYDREAM」のカヴァー(註:デニス・ダナウェイ・プロジェクト名義)でも使用した。また、デフ・レパードのフィル・コリン(写真右上)に貸し出して、何度か彼がステージでこのギターを使うこともあった。私自身のバンド、サイコ・マーチャンツのデビュー・アルバム『RUBIKS CUBE』でも使用し、「FIRE」のPVではこのギターが映ってもいる。雑誌「GUITAR AFICIONADO」や、リサ・ジョンソンが作った驚くべき本「108 ROCK STAR GUITARS」でも特集された(写真右中央&下)。あのギターは、再び音楽を奏でることになった。

 私の友人のひとりであり、ボウイ、ロンソン、モット・ザ・フープルに深く入れ込んでいる人物でもあるマデリン・ボケイロ(彼女は自身のブログを通じて、いつも素晴らしい情報を提供してくれる)がある日私にコンタクトしてきた。いわく、「FOR WHAT IT'S WORTH」という名のTV番組(註:いわゆる「なんでも鑑定団」的な番組)が、ロック関連のメモラビリアを扱ってるのだけど、もしその気があればその番組に出てみないか、とのこと。「HOWARD STERN SHOW」でも有名なゲイリー(・デラベイト)と、あと誰かもう1人(註:ゲイリー・ゾーマーズ。俳優さん)のホストでやってる番組だ。その番組では過去にギターを扱ったことはなく、番組に出ている「専門家集団」たちが、私の考える「あのギター」の価値を上回る金額を見いだすとは思えなかった。結果は・・・ あー、案の定。ったく。専門家の意見は間違っている、ということを証明する結果となった。

 さらに何年かが経ち、ミック・ロンソンが使っていた機材を動画で撮影して、YOUTUBEにアップしようと思い立った。何年もかけて、私はロンソンの使用機材を集めてきた。スージー・ロンソンが所持していたミックの機材はその殆どを私に売却してくれた。ボウイとの共演で使用したマーシャル・メジャー・アンプヘッド、アルバム『HEAVEN AND HULL』でミックが使用したマーシャルのハーフ・スタック、いくつかのペダル・エフェクターやシンセ・キーボード、彼のレコード・コレクション、大量の2インチ・マルチトラック(24ch)テープ、それから細々としたアイテムをいろいろ。それらの多くは、ワイアード&ギリー名義で出版されたミック・ロンソンの伝記本「THE SPIDER WITH THE PLATINUM HAIR』で公開されている。その本では私は「現在あのミック・ロンソンのギターを所持している人物」としてインタビューを受けた。

 いつも私のところには、あのギターに関して質問の電話がひっきりなしにかかってくる。何マイルも離れた遠い地域からはるばるやってきて、あのギターを見てみたいのだけれど、とお願いされる。私はいつもそのお願いに「ああいいよ」と言ってきた。ミック・ロンソンのファンであれば、誰でもオッケー。皆あのギターを目の前にすれば、誰でも同じことを——「ZIGGY STARDUST」のイントロを演奏——する。あのフィル・コリンでさえも同じだった!

 そんなわけでミックのギターとアンプを使った動画を撮影する際も、私自身でそれと同じことをやってみた。また、再度イアン・ハンターを相手にして、ミック・ロンソンに関して彼に喋ってもらった。イアンがまだ何本かミックのギターを所持していることもあり、彼が動画に実際に出演してくれるかどうかとお願いしてみたところ、彼は快く同意してくれた。そのために動画は2本立てにしてある。動画をYOUTUBEにアップするやいなや、大量のコメントや「いいね!」を貰うことになった。何の見返りや報酬を得ることもない、ただの趣味動画。試聴者はみなその意味を分かってくれたようだ。(つづく)

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8.04.2015

Saying goodbye to an old friend (Part.1)


 ミック・ロンソンのレスポールのお話、その続きです(前回分はこちらを参照願います)。
 以下の文章は、アメリカのGUITAR HANGARというギターショップのオーナーであり、同時にプロ・ギタリストでもあるリック・テデスコ氏によるものです。本人の許可を正式に得て、当ブログにて日本語訳を掲載させていただくことになりました。前述したように、氏はあのミック・ロンソンが実際に使用した68年製GIBSONレスポール・カスタムを長らく所持した人です。
 で、結末を先に書いてしまいますが、彼は長年愛着を持って保持したそのギターを、つい先日手放すことになりました。その顛末記です。彼の友人でもあり親しく交流もあるイアン・ハンタースージー・ロンソン(ミック・ロンソンの未亡人)を交えて、このギターに関するエピソードを丸々まとめたものとなっています。



古 き 友 に サ ヨ ナ ラ を
by Rick Tedesco (Guitar Hangar)


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 2000年の春のとある日。イアン・ハンターを伴ってドライヴ中だった私は、道中彼とミック・ロンソンに関しての話題——それまでもイアンと顔をあわせる度に幾度となくしてきた話題だが——にまたも花を咲かせた。イアンは彼の自宅にミック・ロンソンが使用したギターを今も何本か保管してある、という。ミック・ロンソンが私にとってどれだけ重要な存在だったか、いつか彼が持っていたギターを自分で所持できないだろうか、という願いを私は口にした。もちろん「ロンソンがボウイと一緒に演っていた時に使ってた、あの塗装を剥いだレスポール・カスタムが見つからないかなあ・・・」とも。イアンは言う「今アレがどこにあるのかって? 神のみぞ知るだね。多分ミックはその辺の道を歩いてるどこぞの輩にでもあげちゃったんじゃないか。彼はそういうのを気にしない人だから。ミックにとって(ギターは)ただの道具、だったからね」。

 その日以来、あのレスポール・カスタムを探し出すという旅に出た。もちろん最終的には、ミック・ロンソンの最も象徴的なアイコンともなった1968年製GIBSONレスポール・カスタム——あのジギー・ギターのこと——を、自分で手に入れるために。

 まず、色々なウェブサイトやネット掲示板に「現在の所在地の情報を求む」という形でカキコミをし始めた。幾度かのやりとりを経て、ジャスティン・ピュアリントンという人物と知り合うことができた。彼はモット・ザ・フープルに関するファンジン『JUST A BUZZ』を主宰している人物で、そのファンジンにはもちろんミック・ロンソンに関する記事も掲載されていた。ジャスティンはイアン・ハンターのアルバム『RANT』(2001年発表)に際して、私にインタビューをしたいと言ってきた人物だ——イアン・ハンターのアルバムに、私はギターで参加していた。
 そして私達の会話は例のミックのギターに関しても及んだ。私があのギターを探してると知ると、彼は「ミックがどこかの記事で、あのギターをオーストラリアにあるハードロック・カフェに寄贈したと語っていた」と教えてくれた。

 キタっ! 掴むべき手綱を遂に見つけた! もちろんその手綱を引っ張ることにした。

 ニューヨークにあるハードロック・カフェの本社オフィスに電話してみた。何度も何度も電話し、その度に「メモラビリア(記念品)担当」の人物は変わり、何度もスルーされるという経験にあった。くだんの物件に関して正しい担当者にやっとたどり着き、彼と直接コンタクトを取れたのは、最初に電話をしてから数週間も経た頃だった。しかし彼は「ミック・ロンソン関連とクレジットされたメモラビリアに関して、一切記録は残っていない」と言う。それでも彼は、80年代の初期にメモラビリアの担当をしていたという人物(名前は失念したが)との連絡先を教えてくれた。ミックのギターがハードロック・カフェに寄贈されたというのが噂通り80年代前半のことであれば、彼が直接そのやりとりの担当をしていたに違いない、と。
 電話番号を得て、私はその人物を探し出すことに奔走した。1週間程は受話器にかじりつく期間を過ごしただろうか。やっと回線が繋がり、実際に本人と話すことができた。彼が言うには、ミックが使用したアイテムに関しては何も(ハードロック・カフェとしては)集めてはいないし、今現物も記録も何も残っていない、とのこと。それを聞いてかなり落胆した私。もしかしたら今そのギターはすでに、誰かの家のクローゼットの中にでも仕舞い込まれているのだろうか、と考え出すようになった。そしてその人物を引き当てる手がかりなどは何もない。チクショー。どうしても知りたい!

 それ知るために、必要以上のガンコ者と化してみた。その噂が本当なのかどうか、2重に確認するために、またしてもハードロック・カフェの現在のメモラビリア担当の人物に電話してみた。もしかしたらそのメモラビリアの名目は(ミック・ロンソン名義ではなく)「デヴィッド・ボウイ関連」とか「マイケル・ロンソン関連」なんてクレジットがされているかもしれない。担当者は辛抱強く寄贈品のデータベースを調べ回ってくれた。しかし何もヒットはしない。そこで私は「ミック・ロンソンがオーストラリアのハードロック・カフェに寄贈した、と自分で語っているインタビュー記事があるんだ。どう思う?」と言ってみた。すると彼が言う。
「えっ? オーストラリア? だってオーストラリアの店舗は名義をライセンスしてるだけの、ただのフランチャイズ店ですよ。あそこに何があるかなんて、ウチ(本社)ではわかりませんし、データベースにも記載されることはありません。じゃあお店の電話番号教えますね。シドニー店と、メルボルン店と・・・」。

 クソったれ! 希望が戻ってきた!

 オーストラリアとの時差のために、電話するには真夜中まで待つ必要がある。明朝はフロリダに出かける用事があるから、朝の4時にはここを出ないといけない。家を出たら18時間のドライヴをしなければならない。しかし、そんなことは関係ない。その晩の夜中、電話した。

 11時59分。ジリリリリン。
「ハイ、ハードロック・カフェでーす」
「やあ、僕の名前はリック・テデスコ。実は今あるギターを探しまわっていて、オタクの寄贈品の中にそれがあるんじゃないかと思ってるんですよ。そちらのお店に、ミック・ロンソンに関するものはある?」
「ええ、ありますよ。今丁度そのギターの真横で電話してます。もう12年くらいここの壁にブラ下がってますねえ」
「FUUUUUUUUUUUUUUUUUUCK! それってレスポール?」
「そうだよ」
「くぁswでrftgyふじこlpkiol!!!!!! えっと、ボディーのトップが木目のナチュラルで・・・」
「そうそう」
「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!」

 なんとか落ち着きを取り戻す必要があった。なんとかしてこのギターを自分の手にするために、あらゆる策を講じる必要がある。最終的には、自分が持っているギター等を何本か同店に寄贈することで、そのギターを譲ってもらうという話に落ち着いた。私が提供したものは、ジーン・シモンズのサイン入りベース2本、イアン・ハンターが所持・使用したPRS、(ブルー・オイスター・カルトの)ジョー・バウチャードが使ったストラト、eBAYとかで集めたデヴィッド・ボウイのゴールド・レコード、イアン・ハンターのサイン入り写真&CD・・・・。

 しかしまず最初に、そのオーストラリアにあるギターが本物であるかどうかを確認する必要がある。というわけで何枚かの写真をメールで送ってもらった。それらの写真を私はスージー・ロンソンに転送し、彼女が持っている大量のミックの写真(実際にミックがそのギターを演奏している時のもの)と見比べてもらって、詳細を比較してもらうことにした。彼女が持っている写真を私にも転送してもらい、自分でも比較してみた。ご承知のようにギターの塗装は剥がされており、まるで警察が指紋の符合を調べるかように、トップの木目が同じかどうかを丹念に比較した。結果、疑いの余地はなく、同一の木目だと確認できた。それは「あの」ギターだった。

 話を先へと進めるべく、同店に寄贈する数多くのギターその他をすべてデカい箱に押し込んで、オーストラリアへと発送した。「その時」が来るまでのカウントダウンが始まった。1週間経ち、ハードロック・カフェに電話して「荷物は届いたかい?」と聞いてみた。しかし「いや、まだだよ」との返事。次の週に再び電話してみたが返事は同じ。その次の週も同じ。おかしい。ジーザス! ハードロック・カフェのあんちゃんと私は、住所が間違っていないか確認してみた。すると私はとんでもないミステイクを犯していたことに気付いた。全然違う住所へと荷物を発送していたのだ! トラッキング(追跡)情報を得てみると、その宛先不明の荷物はUPSの倉庫で長い間も放置されているようだ。そこで正しい住所への再配達をお願いし、なんとかそのデカい荷物は正しい受取人の住所に配送される運びとなった。直後に、ミックのギターはパッキングされ私のもとへ発送されることとなった。これはまだ(西暦)2000年のお話。現在のように「トラッキング・ナンバーを使ってネットで荷物を追跡する」ことが、それほどメジャーではなかった時代の話だ。(つづく)

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8.01.2015

Saying goodbye to an old friend… introduction

 
 ミック・ロンソンのお話です。ええ、またしても、です。申し訳ありません。今まで彼の使用機材に関して、エフェクター、それからアンプ、と順を追って書いてきました。で、今回はあのギターに関して、しかもその最新情報に関してです。ちょっと長くなりますが、お好きな方は、ほんのひとときお時間を拝借できれば幸いです。

 まずはおさらいです。彼がスパイダース・フロム・マース時代(70〜73年)に使用したギターは、1968年製GIBSONレスポール・カスタムであったことはもう言うまでもありませんね。エレキギターに関していえば、ジギー時代のロンソンはほぼこれ1本で通しましたし、ボウイと別れてからも、彼はこのギターがダメになるまで使い倒しました。

 ちなみに72年ボウイのアメリカ・ツアーにてニューヨークを訪れたときに、ミック・ロンソンはサブ・ギターとしてチェリー・サンバーストのレスポール・デラックス(72年製/2ハム仕様)を入手していますが、それほどこのギターの使用頻度は多くありません。

 68年製GIBSONレスポール・カスタムはPOOR MAN'S BURSTという異名を持つ程に特別なギターです。50年代のテンプレートを使って作られた最後のモデルということもありますが、1Pマホネック/ディープジョイント/2Pメイプルトップ/1Pマホバック/スクエアウィンドウ・ボビンのステッカー・ナンバードPAF/ABRブリッジ。いずれもこの68年(実際には68年末〜69年初頭、という半年未満の期間しか作られていません)同様の仕様は、それ以前もそれ以降もGIBSON社では作られたことがありません。唯一の例外としてGIBSON社が「このスペックとまったく同じ」と謳ったギターは、90年代末から発売したCS製カスタム・コレクション(後に同シリーズはヒスコレに合流することに)の68リイシューですが、ホンジュラス・マホを使ったオリジナルとアフリカン・マホを使ったリイシューを同じ目線で語ることはできません(いや別にいいんですよ。いいんですけどね・・・)

 以前、当ブログにて掲載したロンソン・インタビューでも語られているように、本人はこのギターをリアルタイムで新品で入手しています。ちょっとだけ珍しい仕様として、彼が入手したそのギターはファクトリー・オリジナルでグローバー・チューナー仕様だった、ということが挙げられます(68カスタムでは殆どの場合クルーソン製ワッフルバック・チューナーが採用されていたのですが)。購入したのはおそらく69年の頭頃、と推測されます。

 70年の年頭までは塗装もオリジナルのママでしたが、70年の頭頃にミック・ロンソンはギターのトップの塗装を剥いでいます。これまでも数多く語られてきたように、マイク・チャップマン(プログレッシヴ・フォークのハシリのような英国出身のSSW)のアルバム『FULLY QUALIFIED SURVIVOR』の録音に参加した69年末、チャップマンが所持していたアコギのトップの塗装が剥がされているのを見て「そのほうが音がよりオープンになる」と聞かされたロンソンは、早速自分のレスポールにも同様の処置を施すことにしました。こうやってあの「グラムロックのアイコン」として有名なギターが出来上がりました。

 細かい仕様変遷を一応書いておきます。トップの塗装を剥いだあと、ミック・ロンソンはピックアップ・エスカッションを白に塗り替えています(上の写真参照)。白いパーツを用意したのではなく、色を塗っていました。うん、可愛いですよね(笑)。おそらく「レスポール・スタンダード」的なルックスに近づけようと考えたのだと思われます。72年頃のロンソンのギターの写真を見れば、エスカッションが白なのが分かります。またそのエスカッションの塗装がどんどんと禿げていく様子も以降の写真(左の写真参照)に残されてますよね。で、73年頃になるともうすっかり(元通りの)黒いエスカッションになっています。

 また、73年頃にはピックアップの金属カバーを取り除いています。つまりボビンむき出し状態というわけです。エレキギターの「エッジのある音」が大好きだったというミック・ロンソンですから、この改造は納得できます。なんといっても「エッジ」が好きなので、その後テレキャスターの音に目覚めてしまったという人ですから。
 ギターのコントロール、その4つのツマミは時期によってマチマチなものが付けられています。一番最初はオリジナル通りのトップハット(フェンダー・アンプのツマミに近い、ギザギザのあるもの)でしたが、ゴールドのソーサーノブになっていたり、2ケだけトップハットで2ケだけソーサーだったり、なんていう時期もあります。

 それからこれは余談に属する話ですが、73年から74年にかけて、このレスポール・カスタムのフロント・ピックアップはポールピースが内側を向く方向にて搭載されていることがわかっています。アルバム『PLAY DON'T WORRY』のジャケ写で確認できますね。つまり、一般的な向きと逆に配置しているワケです。こうすることでフェイズ効果が生まれるわけですが、ロンソンがこれを意図的に行なったか、ただ間違っただけなのかはわかっていません(おそらく後者だと推測しますが。笑)。

 これは奇跡と言うしかありませんが、73年7月、ジギー・スターダストが引退するまで、レスポール・カスタムはトラブルもなく使用できていました。あの荒っぽい性格を考えると、もうホントに奇跡でしかないです。で、案の定ですが、74年以降このギターはトラブルに見舞われまくります(笑)。

 本人がインタビューで語っているように、74年の自分のソロ・ツアーの際に、ネックが逝ってしまいます。その程度はうかがい知ることもできないのですが、ネックにヒビが入った後、本人はそれでもこのギターを使い続けましたが(!)、日々不具合は大きくなり、遂にはガムテープでネックをグルグル巻きにするという信じられない事態(笑)になります。この頃からロンソンはこのレスポール・カスタムを使わなくなります。

 70年代の末頃、このギターは修理に出されます(やっとかよ。笑)。この時の修理は文字通りの大修理で、まずネックはすべて新しいものへと差し替えられました。この新しいネックは一応レスポール・カスタムの仕様そのまま(つまり1Pマホ、エボニー指板、ブロック・インレイ)ではありますが、ヘッドのロゴはGIBSONの筆記体ロゴ(戦前のGIBSON社が使っていたロゴ)になりました。本来黒であるハズのヘッドストックも、木目のナチュラルになりました。この「新しいネック」「新しいヘッドストック」は共にGIBSON製品のシェイプをしていない(ロッドカバーも3点止めのヘンな形のもの)ので、この修理がGIBSONの工場で行なわれたのではないこともわかります。
 ヘッドやネックだけではなく、このリペアの際にギターの塗装はすべて剥がされ、全体をナチュラルにてリフィニッシュされています。1980年のイアン・ハンター&ミック・ロンソン・バンドによるライヴ映像『ROCKPALAST』がDVD化されていますが、このライヴで登場するこのレスポール・カスタムにてこの「修理後」の仕様を確認することが出来ます。実はこの頃、既にミック・ロンソンの興味はこのレスポール・カスタムからは離れていたようで、同ギターはイアン・ハンターが使ったりする場面もあります。

 そして(本人の音楽活動の頻度も関係したとは思いますが)このギターは1982年に現役引退します。某所に記載された一説で「またネックが折れたから」という文献を見つけることができます。実は正確な撮影日が不明ながらも、その事を裏付けるこんな写真があります。ヘッドがポッキリと逝ったあのレスポールを抱えるイアン・ハンターの素敵なお写真です(笑)。ギターの状態からもわかるように、これは前述の「リペア&リフ」後のレスポールが映っていて、そのせっかくの大修理の後にも更にネックが折れてしまったことを示しています。つまり、あのギターは過去に2度以上ネックを折ってしまったという歴史を持つことになります。

 さてさて、ミック・ロンソンが実際に使ったギターはその後どうなったのか、というのが今回の主題です。つまり上記した長ったらしいウンチクはすべて前文となるわけです(笑)。スイマセンね。

 1988年、ミック・ロンソンはそのレスポール・カスタムをオーストラリアのシドニーにあるハードロック・カフェに自ら寄贈しています。主だった理由はもちろん知る由もありませんが(どうせ理由などないに決まってます。ロンソンはそういう人なので——これはあのイアン・ハンターも同様の発言を残しています)、寄贈された時にはもうこのレスポール・カスタムがズタボロの状態であったことが、当時のハードロック・カフェのスタッフの証言で残されています。

 そしてその12年後、2000年にアメリカのGUITAR HANGARというお店のリック・テデスコ氏がこのギターを入手します。リック・テデスコ氏に関しては次回以降に詳しく記載しますが、オーストラリアからアメリカにやってきた時点=2000年の時点で分かっているこのギターの状態を記載しておきます。

 木部とピックアップに関しては、82年当時の姿(つまり修理後の姿)をそのまま残しています(ハードロック・カフェに寄贈された際に、ロンソン自身がこのギターのトップにサインを入れていますが)。ただしポットやキャパシター(ブラックビューティーX2)は交換されてしまったようです。エスカッション、ブリッジ、テイルピース、コントロールノブ4ケも全て新しいヒスコレ用のパーツに交換されています。
 で、このギターがその後どうなったか。次回に続きます。
 

7.20.2015

a new "PIG" sound "M-200" Coming Soon from Manlay Sound

 
 速報です。というか、まだ完全に仕上がってないんですが、情報漏洩しちゃいます(笑)。実は米MENATONEの作る例の「PIG」というペダルに感化されまして、スペインのMANLAY SOUNDでも「あの伝説のマーシャルMAJOR初期バージョンのシミュレート・ペダルを作れないか?」という相談を、ここ1年以上行なってきました。で、結論を先に言いますと、スペインのMANLAY SOUNDでも作ってみたぞ、というわけです。名前はM-200と言います。現時点では、日本での発売時期、発売価格、販路は未定です(笑)。

 何度も書いてきましたが、筆者に違わずスペインMANLAY SOUNDの主宰ROMAN GIL氏もミック・ロンソン・サウンドというやつにゾッコンLOVEな方でして(笑)、アメリカのMENATONEがPIGを作ったことも知ってました。メールで当方が持ってるブツの中身とか音とかいろいろ送った上で、彼も作ってみたい、と思ったそうです。

 うん、そうだよね、だったらMANLAY SOUNDの新しい製品になるよね、でもね、PIGと同じペダル作ったんでは何の意味もない。じゃあどうすんべ、という話し合いを延々と繰り返しました。そこで出たアイデアがいくつかあります。列記してみます。

 ひとつは回路。今はもうホンモノのマーシャルMAJOR初期型(2インプット)の回路図がネットで出回っています。まずはそれを純粋にエフェクターで再現してみよう、ということ。米MENATONE PIGの場合は、最後にアウトプットのツマミがあったり、どのツマミも思いのほか効きが激しい(歪みやすい)ということもあり、まずはアンプの回路図に純粋に従って回路を見直そう、ということです。
 また、MENATONE PIGの場合はシリコン・トランジスタの組み合わせであの音を作っているのですが、後発となるMANLAY SOUNDのほうではFETを使おう、という考えです。

 すでにご承知の方も多いと思われますが、FET(電界効果トランジスタ)は真空管の動作を再現するのに一番動作原理が近い、とされています。FETを真空管代わりに使って、コントロールも本物のアンプ同様に3ノブにして、よりアンプライクなペダルになるんじゃね?というアイデアなわけです。

 さらに、このM-200には新たに加えられたモディファイがあります。それは出力段に取り付けられたトグルスイッチ機能です。このスイッチは何を切り替えるかというと、このペダルの最後の段(MASTER VOLUMEのツマミ)が生み出す歪みを高めに設定するか低めに設定するか、を切り替えます。本来のアンプにそのまま近い値で使うなら「HIGH」を選べばいいのですが、何故これを付けたか。それは「実際にこのM-200を繋げるアンプ側のパワー部の歪みを生かしたいとき」のためです。実際のアンプでEL34だったりEL84だったりKT66だったりKT88だったり、ギタリストの方はもちろんそこにもコダワリがあると思われますが、それらの真空管の生むドライヴ感を殺したくないという時の為にあえて「LOW」セッティングを用意しました。

 別に当方もMANLAY SOUNDもMENATONE PIGに文句があるわけじゃなく、オーバードライヴ・ペダルとしてはもう個人的な好みで言えば最高の部類に入ります(今当方が持ってるエフェクターの中で「必需品は?」と聞かれたら間違いなく「MENATONE PIG」と答えるでしょうね)。ただ今回の場合、もうちょっと本物のアンプのように動作しないかな、と考えたわけです。なので、音としてはMENATONE PIGよりもこのMANLAY SOUNDの新製品のほうが「控えめ」です。

 なんと言ってもマーシャルの初期型MAJORは、「このアンプでしか出ない」という特別なサウンドを持った唯一無二のアンプです。それをアレコレ再現してみよう、というブランドが世界のあちこちにあったっていいんじゃない?とは思います。基本回路は本物のMAJOR初期型も、MENATONE PIGも、このMANLAY SOUND M-200も同じです。インプットから入ってきた信号は2つにフィルタリングされ、TREBLEとBASSの2つの回路でそれぞれ増幅され、その後にミックスされて、んで最後にグワっとパワーセクションでゲインを稼ぐ、というやつです。出来る限りピュアに、出来る限りミック・ロンソンの音に近づきたい!というヲタク心の成せる業、ですね(笑)。ヲタク心には日本もスペインも関係ありません。

 今回のペダルのデザインは当方ではなくスペインのROMANが自分でやりました。なので当方は基本的に中身も外身もタッチせず(とはいえ、1年以上アレコレと山のように相談しまくりましたけど。笑)、ROMAN GILが自分でアレコレ試行錯誤して出来ました。ペダルの左下に配置されたロゴは、ええ、お気づきの方もいるかと思いますが、デヴィッド・ボウイのアルバム「HUNKY DORY」で使われた書体と同じですね。うん、あのアルバム、ROMAN氏は大好きなんですよね。当方がラベルデザインをしたらこうはならないんですけど、これはこれでMANLAY SOUNDらしくてアリですよね。「フォントのことなんて誰も気付かないと思うけど」とROMAN氏は言ってましたが、おいお前、日本のボウイ・ヲタクをなめんなよ。すぐわかったわ(笑)。

 そんなワケでスペインでは早速デモ動画をアップしています。実はここに至る以前の、プロトタイプ状態で音だし確認してみたという音声ファイルとか動画がウチのPCには山のように保存されているのですが、その試行錯誤の歴史を見るようで感慨深いです(笑)。最初はここまで音もまとまってなかったですからね。
 動画のコメントにもありますが、例によってギターはGIBSONレスポールカスタム、アンプはドイツのDYNACORDというメーカーの17Wアンプ、キャビはVOXの安い12インチ1発のやつ。アンプの音はクリーンで小さくしてあるそうです。だから、アンプのキャラはほぼ殺して、歪みは全部このM-200で作ったという音になります。

 今回のマーシャルMAJOR初期型をシミュレートした「M-200」は、MANLAY SOUNDの製品としては、以前からあったマーシャルJTM-45の音をシミュレートした「THE SOUND」に続くオーバードライブということになります。再度になりますが、これを書いている時点では日本での発売時期、発売価格、販路は未定です(笑)。進捗があり次第、またあらためてご報告しようと思います。
 

3.14.2015

Menatone “PIG” On Sale Now


 はい、すっかりウチのブログではお馴染みとなりました、MENATONE製のカスタム・ペダル、PIGのお話です。またいくつか入荷しましたので、売りに出します。エフェクターの中身に関しては当ブログの過去のポスティング(こちらとかこちらとかこちら等)を参照いただければと思います。

 簡単に言えばマーシャルMAJORアンプをシミュレートしたオーバードライブ・ペダルだと思っていただいて構いません。がしかし、過去にこのようなペダルは一切ありませんでした。更に更に、過去他のペダルを使ってこのような音を出すペダルは一切ありませんでした(笑)。そりゃそうだ。だって誰もこういう音の正体がわかっていなかったから。

 とはいえ、このペダルがこの世に登場して既に2年以上経ちましたので、今ではもしかしたらこういう音をどこか外で聴くことがあるかもしれません。当方のブログの過去の文献がお役に立てば光栄ですが、もし興味を持たれたギタリストの方がいらっしゃれば、お分けしたいと思います。写真のとおり、全部で7ケほど入荷しました。下記に詳細を書きますが、赤・白・黒のカスタムカラー(笑)は販売しません。通常の金色バージョンが4ケほど在庫がありますので、いつものように当ブログを通じて直販します。直販価格は45000円(送料/税込)となります。もしご希望の方がいらっしゃれば、こちらまで直接メールにてお問い合わせいただければと思います(ただし勝手ながら匿名でのメール/ご質問には基本的にお答えしていません。お名前の記載をよろしくお願いします)。

 たしか以前も似たようなことを書きましたが、今回は状況はより深刻です。なんの話かと言えば最近の急激な円安傾向(笑)。なんといっても前回入荷したときは1ドル100円前後でした。なんと今は1ドル120円もします。泣きたくなります。ですが、おそらくこのMENATONE PIGを販売するのはこれで最後かと思いますので、最後まで価格は変えずに販売します。

 さて、このMENATONE PIGというペダルに関するデモ動画は、当ブログで過去にペタペタと貼付けたもの以外にもいろいろYOUTUBEにてアップされるようになりました。どんな音がするかは各位検索等で調べていただければ幸いですが、今回どうしてもアップしたい動画を1ケ貼付けます。いやあ、素晴らしいですね!

 何が素晴らしいって、もちろん人間ギタースタンドが、です(笑)。表情豊かなギタースタンドはともかく、当ブログの熱心な読者であれば既にお分かりかと思いますが、元・毛皮のマリーズ、現・THE STARBEMSのギタリストである越川和磨氏は現在このMENATONE PIGを使用しています。動画後半で越川氏が自身のペダルボードの一部を紹介していますが、登場していますね、MENATONE PIGが!
 以前ゲイリー・ハースト(TONE BENDERの生みの親)にインタビューした際に「世界に愛されているボウイのサウンド、そのサウンドに貢献したという事実、それはとても光栄なことだ」と言ってましたが、当方にもその数パーセントほどは気持ちが分かりました(笑)。

 ちなみにこの動画、続編(Part.2)もあります。この後半の方が当方的にはもうビンビンきますね。「(ロックは)カブかんといかんのですよ」という究極のお話が聞けます。はい、足下にある小さなペダル・ボックスが金色か赤色かなんてのは客席から見ても一切関係ない話ですよね。ですが、ギタリストがドリャアっ!とカブくその瞬間のモチベーション、その為にはやっぱり必要な小箱だ、と当方は考えています。いいですね、「カブく」って言葉。大好きです。この動画見たあと、色んなところで当方も使うようになりました(笑)。
 そういうワケで先日発売になったTHE STARBEMSのニュー・アルバム『VANISHING CITY』を掲載しておきます。そう、MENATONE PIGは別にミック・ロンソン好きのクラシックなブリティッシュ・ロック・ファンにだけ存在するわけではありません。ちょいスラッシュ入ったSTARBEMSのようなラウド・ロック(しかもギター3本!)バンドでもちゃんと生き生きと効果を発揮します。興味もたれた方は是非お求めください。

 最後に余談を。以前から「もうPIGは作らねえよ」と何度もMENATONEのブライアン・メナ氏から念を押されていたのですが、何度か継続的に製造しているようです。当方の元へこの新しいPIGが入荷した際には、手書きシリアルが60番近くまでいってました。ということは60ケ近くはもう作ったということですよね。今後も機会があればブライアン・メナが作ってくれるんだろうとは想像しますが、当ブログでの販売は今回が最後です。理由は簡単です。円安です(笑)。もし当ブログでの販売終了後に欲しくなったという方がいらっしゃれば、是非以降はMENATONEに直接コンタクトをとっていただくようお願いします。
 そして赤・黒・白のカスタム・カラー。これは当方がブライアン・メナに無理を言ってやってもらったモノなんです。というか先方から「何だったら色かえようか?」と言われたので、んじゃあ赤黒白でよろしくう、と言っただけなのですが。白は既にお譲りする方も決まってしまい、赤と黒は当方が自分で使うつもりですので、申し訳ありませんが販売できませんことをご了承願います。
 

6.27.2013

Mick Ronson Interview - Part 7

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——あなたのソングライティングに関してだけど、ボウイから影響を受けたとは思う?
MR:ボウイと一緒にやってた時は、僕は曲を書かなかった。その頃は作曲に興味がなかったから。
——でもボウイの曲の中で、プロデューサーだったり、アレンジャーとしてもクレジットされることがあったよね?
MR:うん、アレンジとか。でも作曲は、全部ボウイの仕事。
——それがフラストレーションになったりしなかった?
MR:いや全然。僕は他の人が書いた曲を演奏するだけ。他の人の曲を演奏するのが大好きなんだ。
——自作曲を演奏するよりも?
MR:もちろん自作曲も好きだけど(笑)。
——こんな曲はどう?ってオファーしてみたことはないの?
MR:ないね。それほど作曲することに没頭したってことがないから。人の書いた曲を演奏するのを、エンジョイしてたんだ。そのほうが簡単だし。だから自作曲にこだわったことがない。ファースト・アルバム「十番街の殺人」を作るまで、作曲なんてのはやったこともなかった。あれが初めての作曲体験なんだ。酷いナマケモノなんで、なるべく沢山の時間をダラダラと過ごしたいタイプだし、椅子に座ってじっくり作曲しようなんて考えた事もなかった。女の子の側で一緒に遊ぶってのならじっくり座るけどね(笑)。まあいずれにせよ、じっくり座って作曲、なんて僕には向かない仕事だね。
——その習性を、変えてみよう、と思ったことは?
※右上の写真は74年の米音楽雑誌「CREEM」より。同誌74年の読者人気投票で、ミック・ロンソンはベスト・ギタリスト部門で2位になった。ちなみにこの時の1位はジミー・ペイジ、3位はエリック・クラプトンだった。
MR:街で何かを観察してみるとか、そういうのが好きな人は見たものをすぐにメモしたりするんだろうね。でも僕はやったこともなかったし、僕には簡単なことじゃない。今は周囲を観察するようになったんで、何か面白いことがあればメモに記したり、とやり始めてみたところだけど。きっかけは、誰かが何か言った時に「オッ、そりゃすごい、メモメモ……」って急に思いついたんだけどね。今までは「メモらなきゃ」とかそんなのを気にするギタープレイヤーなんているわけねえだろ、って思ってたんだけど。
——それはやっぱり、ボウイとかディランのような人達と仕事してきたから、なのかな?
MR:作詞なんて興味もなかったし、本を読むのだって好きじゃない。そういうことだよ。本なんて今までの人生で2冊くらいしか読んだ事がない。ひとつは「トム・ソーヤーの冒険」で、もう1冊が何だったかは忘れたけど。とにかく読書は嫌い。何も読まない。だから言葉を使う方法、ってのが元来苦手なんだ。言葉で表す、なんてしたこともない——言葉よりも、音楽で表現することの方が沢山自分を伝えられるし、それが僕に出来る唯一の表現方法なんだ。でも今、言葉でも自分を表現でしてみたい、と思い始めたところ。今ちょうど勉強を始めたところだよ。他の人達が既に学んで知っていることを、ね。だから作曲に関しては、今までと違う方法で、よりいい曲が描けるようにならないか、試してみようか、と思ってる。
——ソングライターとしてのキャリアも積んでみよう、と?
MR:いやいや、ちょっとそっちの方面にも旅してみる、ってだけ。自分に何が出来るか勉強してみてるだけ。でも自分に何でも出来ると妄信するようにはなりたくないし、いつも色んな本を持ち歩いてみて、誰かが言った興味深い部分を、ホントにチョットだけ書き留めてみる、っていうだけ。あと、テープレコーダーを持ち歩いて、色んなところで誰かが言ったものを録音してみたりとか。そんなことばっかりやってるのも好きじゃないんだけれど、たまに、オッいいね、これは残しておきたい、と思ったらいつでもメモできるように、ね。いままでよりはメチャメチャ忙しくなったけど、基本的に僕は怠け者なんで、そんなに仕事のことばかりバリバリ考えたくはなかったんだけどな。でも自分で学んでみたい、と思ってしまったのも事実で、じゃあ実際に自分でやるしかねえよな、と(笑)。楽しんでやってるし、いいライターになれたら嬉しいよね。僕がやりたいことってのは、違う仕事をいろいろやってみたいってこと、ひとりで朝起きられるようになること、明日も朝が来るだろうって期待すること。
——いま、期待してることは?
MR:本心をいえば…… スタジオワークをもっとエンジョイしたいね。スタジオの中にいるのが大好きなんだ。またスタジオで仕事できるのを期待している。スタジオ中毒とかそんなことではないんだけど。スタジオで仕事があると、いつも早く行くようにしてる。30分は早く着いちゃうね。昨晩は夜の7時からスタジオ入りだったんだけど、それまでの時間、日中がもう長く感じちゃってイライラしたね。スタジオにいるのが好きだし、そこで仕事するのがまた楽しいんだ。結局僕は、その「楽しい」ことをやりたい、っていうだけなんだよね。スタジオに向かって移動する、それさえ大好きだもんね。
——あなたのソロ・アルバムでは、エレキギターだけじゃなく、アコギとかキーボードとか、いろんな楽器を演奏してるよね。
MR:たしかにいろんな楽器を演奏してる。そんなに上手くないけどね。でも自分で演った。どんな音にするか、自分で取捨選択するわけだから、どんどん難しい作業にはなるんだけど。スタジオで、卓の後ろに座るのも好きなんだけど、スタジオのブースに出て行くのはもっと好きだし、ギターの弦と戯れるのはもっともっと好き。そういうひとつひとつの小さな作業を何もかもやるっていうのが大好きなんだ。ひとつの業務だけを全うする、てのができないんだ。だから、少しずつだけど、徐々に自分を開発していってる、っていうカンジだね。僕はいろんなことを学ぶっていうのを止めることができない。それは一生そのままだろうね。でも、それでいいと思ってる。
——ジェフ・ベックとセッションしたよね。あれはどうだった?
MR:オー、すっごく楽しかったよ。本当に楽しかった。ある時僕等のライヴに彼がやって来たんで、僕がデヴィッドに言ったんだ。「一緒に演奏しないか、ってジェフに聞いてみようよ。簡単なセッションで」ってね。で、ジェフにそう聞いてみる事にした。実はその日はジェフの誕生日だったんで、ジェフはバーで何杯か飲んでた。面白いよね。ジェフは「ああいいよ。演奏するの好きだし」って。最高だろ(註:発言が正しければ、このやりとりがあったのは73年6月24日、英クロイドンのフェアフィールド・ホールでのライヴ会場と思われる。実際にセッションをやったのは73年7月3日、英ハマースミス・オデオンでのジギー・スターダスト引退ライヴの場だった)
——ジェフ・ベックからは、影響を受けた?
MR:ああ、そりゃもちろん。彼は僕のヒーローだから。
——他に、強く影響を受けたのは?
MR:沢山いるんだけどね。キース・リチャーズはいつだって大好きだ。彼のプレイが好きなんだ。それから、ジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンも。その2人は一段下がる、ってカンジだけど。
——今までスケール練習とか、ランニングノートとか、やったことある?
MR:いやいや(笑)、いつも僕は同じようなフレーズを適当に繰り返してるだけ(笑)。たまに、やっときゃ良かったなって思うこともあるけど。きっと僕は、聞いたことあるような同じようなフレーズを何度も何度も繰り返す、っていう方法だけで終わるんだろうね。でも聴こえ方は毎回変わるハズだけど。
——練習は、しないタイプ?
MR:しないね。(部屋の隅にある、レスポールがしまい込まれたギターケースを指差して)ギターはケースにしまいっぱなし。明日スタジオでケースを開けるまで、ギターはあのままだろうね。いや、でも少しは練習することもあるな。でも覚えるのは遅いんだ。そういうのを毎日毎日積み重ねるのは僕には無理。考えるのも無理。まあ少しは練習しようとは思ってるんだけど。ギタリストとしての僕を支えてるのは、人と会ってセッションすることだから。誰かの演奏を見るだけで、すごく僕の参考書になる。それが僕の「練習方法」だね。いい練習になってるよ。
——今、いろんな面で上手くいってる、と感じる?
MR:いままでと違うタイプのソングライティングをすること、今まで聞いた事のなかった新しい音楽に挑戦すること、どれもこれも、最近急にやり始めたばっかり、っていうものだ。そういう新しいものを吸収することで、僕もリフレッシュできるんだ。今まで演奏したこともないものを、どうやって演奏するか勉強してみる。いままでと違う演奏方法でね。凄いリフレッシュになるんだよ。かといって、今まで既に僕がやってきたものを全部捨てるっていうワケじゃないんだ。それはそれで、価値があるものばかりだから。
——あなたのギター・プレイに関して、何か聞き忘れたことってあるかな?
MR:いや、バッチリじゃないかな。なにかあれば、6ヶ月以内にまた質問してよ。……どう? 最後にそう書いとけば、上手く「オチ」になるんじゃない?

Interview by Steven Rosen in 1976. / Article written in 1976, revised in 2013.
Translated by Tats Ohisa. ©2013 Steven Rosen / Buzz the Fuzz

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 上手いオチかどうかはともかく(笑)インタビューは以上になります。とても万人にとってタメになる文章とは思えませんが、もしお楽しみいただければ、幸いです。余談ですが、このインタビューはローゼン氏がミック・ロンソンとサンタモニカの西にある、トロピカーナというちょっとデカいモーテルのレストランで、ランチを食べながら行なわれたインタビューです。同じ表現、同じ話題が何度か繰り返されてしまうのは、メシを食いながら行なったQ&Aを、そのまま(取材テープに録音されたそのまま)書き起こしているからです。文章としてはやや読み辛い点があるのは承知の上ですが、そのまま再現しました。ご容赦いただければと思います。
 文末にサンクス・クレジットを入れてませんが、もちろんこのインタビュー原稿をライセンスしてくれたスティーヴ・ローゼン氏に感謝を。そして今から37年も前の古くさい文献で、しかもやたら長文で、拙い翻訳と註釈で、という3重苦のインタビュー文ながら、最後までおつき合い下さって完読していただいた方には、最大限の感謝を。
 

6.24.2013

Mick Ronson Interview - Part 6

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——ボウイと一緒に演ってたころって、他のミュージシャン達とセッションするような機会はあった?
MR:いや、なかったね。他のミュージシャンとかアーティストなんかとジャムる機会はまったくなかった。一度も。そういうのって、ミュージシャンにとってはやっぱり珍しいことなのかな?
——ミュージシャンなら、いつでもいろんな人とセッションするのが好きそうなものだけど。
MR:アメリカではそうなのかもしれない。イギリスではそんなでもないんだよね。理由はよく判らないけど。イギリスではそういう機会自体があまりないんだ。イギリスでも、そういうカンジ(セッション文化)になればいいのにね。どっかに1つか2つ、機材が常備されてて、ミュージシャンが皆集まって、自由にプラグインできて、色んなミュージシャンと気軽にセッションできるような場が、ね。そうなったら素晴らしいのに。
——アメリカのミュージシャンと、イギリスのミュージシャンでは、やっぱり違いがある?
MR:あー、自分の経験からしか答えられないけど、そういうセッションの機会とかを僕自身がそんなに経験してないから、セッションに参加するミュージシャン達がどんなアプローチをするのか、イギリスとアメリカでどう違うのか、は判らないんだ。僕個人としては「全然違うなあ」と感じたけれど、何がどのくらい違うか、は判らない。多面的に検証したわけでもないし。もし僕がアメリカを縦断してれば、言えることもいろいろあるんだろうけど。でも、概してアプローチがどう違うか、とかは大差ないだろう。セッションは得てしてルーズな演奏になるもんだし。ギタリストは、ギター持って、演奏をおっぱじめて、歌って、なんかやって、みたいな。でもそれが最高なんだけどね。健全だろ?

※76年5月発表のロジャー・マッギン(元バーズ)の4枚目のソロ『CARDIFF ROSE』はミック・ロンソンのプロデュース。ギターやピアノ他多くの演奏でも貢献。
——そういえば、ロジャー・マッギンと一緒に仕事したよね?
MR:そう。ニューヨークでやった。多くのミュージシャンはNYにいるからね。僕もNYに住んでた。ロジャーもNYに住んでた。だから、一緒にツルむようになって、そんなこんなで演奏もするようになった。そういえば、新聞の広告に書いてあったんだけど、ロジャーと僕とで、いくつかライヴをやる計画があるんだって。実現すれば、単純に楽しいだろうと思うし、一緒にプレイするのも楽しみだ。でも、西海岸出身のミュージシャンもいるし、僕等はどこかでライヴやろうかなんていう話し合いをしたことはないんだけどね。プロモーターは「ライヴをやるべきだ」って考えたんだろうな。
——プロモーターはあなたとマッギンには何の確認もなく、ライヴをブッキングしてるの?
MR:あー、実際には、少しだけ話には出たことがあるよ。でもその時は「いやいや、それはやりたくないなあ」と言ったんだ。でも広告にはいまだに書いてあるし、ライヴの名義は「WITH THUNDERBIRDS」とか書いてあったけどね。名前、THUNDERBIRDSであってたっけ?(註:正確には「THUNDERBYRD」)プロモーターのそんな所業にはちょっと疲れ果ててしまったね。信じられないよ。僕の言いたいのは、ライヴは別にいいんだよ、一緒にプレイするのは全然楽しいだろうとは思う。でも、そんな風にビッグ・プロジェクトのように装うための道化にされるのはゴメンだね。もし誰かがギターをプレイする時に、他人から「さあ皆さん、ギターを弾きたいって言ってる人が今からギター弾きますよ!」なんて横から言われたくないだろう? ギタリストは、ただシンプルにやる気を出して、シンプルにプレイする、そうあるべきだ。そうでなければ、そんなワケのわからない広告とかの及ばない他の国とかにでもいって、プレイする。告知なんて、地方のちっちゃなローカル新聞とかで十分だ。
——名前で客寄せとかは、したくない、と。
MR:プレイする上では、そのほうがいいね。ホントに小さなバーでのライヴ、もしくはその真逆の、ホントに大きなイベントなんかで演奏するのなら(名前で客を呼ぶのも)構わないけど、そのどちらでもない、中規模なライヴでそれをやるのは我慢できない。何が問題かといえば、実際に演奏するプレイヤーへのリスペクトを皆失ってしまうと思うからね。その名前に惹かれてライヴを見に来た観客さえも、ね。それをやった瞬間に、プレイヤーではなくビジネスマンになってしまう。そういうビジネス・トークばかりがいつも人の話題になるのはそんなに気持ちのいいモンじゃない。そういうヤツなのか、って間違った印象を持たれたくもないから。でも僕個人の話としては、クラブに言って演奏するのは何ら問題ない。ニューワースだって先週…… いや、先週じゃないか、とにかく今年の夏のことだけど、NYのグリニッジ・ヴィレッジにあるアザーエンドっていうクラブ(註:同所は70年代に一時期だけ「OTHER END」という名で営業していたが、それ以前、もしくはそれ以降も「BITTER END」という名で営業。カーティス・メイフィールドやダニー・ハサウェイのライヴ盤も録音された、有名なクラブ)でプレイしてた。そのクラブは僕が初めてディランのバックバンドのメンバーと会った場所なんだけど、その時も僕はいきなりステージに立ったんだ。参加してたミュージシャン達も、お互いが何ものかはよく知っていたけど、契約とかは一切関係なし。それは素晴らしい体験だったよ。だから僕も、そうありたいと思ってるし、そういうスタンスでいたいんだ。
——もし、キッチリとした了承の上で告知されていたら、ロジャー・マッギンともライヴをやってた?
MR:参加するミュージシャンに関して程よく「ルーズ」が担保できてたら、やる気も出るし1〜2曲参加するのは全然いいよ。上手くいくだろうと思う。でももし「さあ、皆さんお待ちかね、遂に伝説の〜〜が登場だ! 1976年、新しいバンドの誕生だ!」みたいな言い方をされるのであれば、観客はそういうモンだと思って見にきちゃうだろうし、そんなのは願い下げだね。

※73年に袂を分かった2人だが、実際にはその後ロンソンとボウイの共演は83年ボウイのツアー中カナダにて1度、その後は晩年93年にフレディー・マーキュリー追悼ライヴで1度だけ、となった。写真は83年9月4日のもの。
——ボウイともう一度一緒にやる、なんてことは?
MR:え? もちろん喜んで。デヴィッドのことは大好きだし、本当に頭のいい人物で、素晴らしい曲を沢山書くし。今後も沢山の名曲が生まれるだろうし、彼ともしまた一緒に演れたら凄く楽しいだろうね。以前、ある質問に答えて僕は「もしまたボウイを見かけることがあったら、蹴飛ばしてやるつもりだ」って言ったことがあるんだけど、もちろん彼のことが大好きだから、ね。
——あまり仲のいい2人のセリフには思えないんだけど。
MR:文字通りの意味に捉えないで欲しいんだよ。その時、彼に改心して欲しかったんだ(註:75年のとあるインタビューにてミック・ロンソンがボウイに関してした発言——「いい加減にデヴィッドは自分を立て直すべきだ。今の彼はもうムチャクチャ。たった今この部屋に入ってきて、僕の目の前に座って欲しい。僕が彼のケツの穴を思い切り蹴飛ばして分からせてやるよ」を指す。アメリカでコカイン中毒になり、体もガリガリにやせ細ったボウイに対して、旧友として助言したもの)。判ってもらえるかな? 友人だし、仲違いしたいとは思わない。僕はさっき言ったようなやり方でやってきたし、簡単にリスペクトされたい、チヤホヤされたい、収入を増やしたいからといって、友人関係とかを利用するつもりはない。もう長いことボウイには会ってないし、僕も、彼からも、電話をしたことすらない。今彼がどこで何してるのかも知らないし、彼も今僕がどこにいるか、知らないだろう。僕は彼を尊敬してるし、彼の音楽も大好きだから、さっきのセリフを少し後悔することもあるんだ。
——人として、もしくはアーティストとして、ボウイとディランは全然違うタイプ?
MR:ディランはアメリカ人、ボウイはイギリス人。それぞれ思い描く理想みたいなのはやはり違うね。
——ディランとの共演のあと、ファンがあなたを見る目は変わったと思う?
※75年から76年にかけて行なわれたボブ・ディランの「ローリング・サンダー・レビュー・ツアー」は、76年5月の公演の模様がアルバム『激しい雨(HARD RAIN)』として76年9月に発表、またこの時のライヴ映像が米NBCテレビで放映されてもいるが、映像は現在も未ソフト化。またその半年前となる75年冬に行なわれたライヴの模様が「ブートレッグ・シリーズ」の第5弾としてCD化され2002年に発表されている。こちらには初回特典としてDVDが付属したが、2曲のライヴ映像が収録されたのみ。
MR:知らないな。それについては考えることすらない。僕を知っている人にとっては意味のある質問なんだろうけど。人が僕をどう思うのか、なんて、考えることは一切ない。僕が自分の立ち位置をエンジョイできている間は、僕にはまったく関係のない問題だろうね。僕のやったことを好きになる人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。「なんでロンソンはあんなヒルビリーみたいな、糞な音楽やってるんだ? 今まで演ってきたような路線に戻ればいいのに」って考える人もいるだろう。まあまた以前のようなモノをやるのもいいんだけど。過去にやったことを続けるってのも、素晴らしいことだとは思うから。でもちょっと「お手軽」だし、いつの時代の僕を再現すりゃいいのか、なんて誰にもわからないよ。全然違うタイプの曲があるんだし。以前やってたような、ハードなロック・ナンバーを今も演奏するけど、今では共演するミュージシャンも違うし、そういうことだよ。だから今まで演ったこともないミュージシャンと、今までやったことのない曲を演る。いつもそうやって動いてるんだ。人々がそれを気に入ってくれないとしたら、僕はもう次に何をすればいいのかさえ判らないね。僕の演るものを気に入ってくれれば、と願うだけだよ。おそらく気に入ってくれるだろう、と思ってるし、ある程度確信もあるんだけど、もしそうでなければ何もできなくなるね。そういうリスクを背負う覚悟はもちろんあるけど、おそらく皆、気に入ってくれるだろう。
——ローリング・サンダー・レビューのメンバーでは、アルバムを作らないの?
MR:えっ、僕には判らないよ。でも多分ないんじゃないかな。ツアーは全部撮影されてたんだけど。将来的に映画を公開する予定があるとかなんとか、そういう時のために一応抑えた映像だとは思うんだけど、どこかのタイミングでその映像(の音源)からアルバムを作ることもあるかもしれない。フィルムとアルバムを一緒に公開する、とかよくあることじゃない? でもその時はまたディランとレコーディングをすることになるかもね。
——ディランと一緒に、歌ってみたい?
MR:そりゃね。でもステージの上で、ってこと?
——そう。
MR:あー、そりゃ勘弁してくれ。バスタブの中ならオッケーだけど。


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6.21.2013

Mick Ronson Interview - Part 5

INTERVIEW BY STEVE ROSEN, DEC 1976
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——ボブ・ディランと一緒に演奏してみて、自分のギター・スタイルがより開拓された。みたいなことは感じてる?
MR:ああ、そう思うね。自分のプレイがどんどん良くなってる。開拓されてるとも思うし、よりスピーディーになったとも思う。とにかく自分でも、ギターをプレイするっていうことに興味が湧いてきたからね。重要なことだ。新しい奏法なんかもみつけたりしたんだ、しかも、けっこう沢山のスキルを身につけた。そういう事にまた興味を持つようになったし、いいギターがまた欲しいと思うようになったし、他のギタリストよりも、よりよいプレイをしたい、と思うようになった。
——ディランから最初に共演のオファーを貰った時って、彼のやっていた音楽と、自分のスタイルがフィットする、って想像できた?
MR:いや、判らなかったね。どんなことになるか想像もできなかったし、自分がどんなプレイを出来るか、出来ないのかも、それすらも判らなかった。どんなことが起こるのか、何も頭に浮かばなかった。だから大変だった。最初はホントに大変だったよ。でも、今ではそんなに大変でもなくなったけど。人を観察する方法とか、人と一緒に演奏する方法とか、そういうのを勉強したから。全部の面でよりシャープになったよね。大抵の人は「ハハン、アイツ何もできてねえじゃん。アイツそんなに良くねえな」とか思ってるのかもしれないけど、そういう人達は僕をほっといてくれるとか、激励してくれるとか、一切無関心でいるとか、まあ無関心でいてくれたほうが判り易いけどね。その時は、自分も本当にラフな演奏しかしなかったし、自分でもそう思ってたしね。


※75年のローリング・サンダー・レビュー・コンサートで「激しい雨が降る」を歌うディラン。同ツアー初期は、ディランが顔を白く塗っていることでも知られますが、動画中ディランの斜め後ろでレスポール・カスタムを弾くロンソンの姿が確認できます。
——ディランからオファーの連絡を貰う前って、ディランの音楽に詳しかった?
MR:いや、そんなに詳しくなかったんだ。ラジオでかかってるから聞いたとか、前に一度聞いた事ある、とかそんなカンジ。あの曲がアレだ、とか全然わからなかったね。どっちにしろ、ディランの曲で知ってた曲も、1〜2曲くらいしかなかった。だから共演するまで聞き込んだことはなかったんだけど、皆どれもいい曲ばかりだよね。
——ディランの昔の曲、昔のアルバムなんかも遡って聞いてみたりした?
MR:いや、そういうのはするつもりもなかった。2曲くらい聞いたことがあるってだけで、それよりも何よりも、自分自身を(ディランという)枠の中のどこに置くか、どんな立ち位置を確保するか、この場面で何が聴こえてくるかを耳で確かめる、そんなことのほうに集中しようと思った。でも結局は集中できなかったね。グルグルといろんなことの中でさまよってしまったカンジで。まっすぐにコレだ!って思えるものに集中することは出来なかった。ディラン・ナンバーを何曲か演奏しなければならない、てことで聞き込んでみたとしても、次の瞬間には同じ曲の別バージョンもあって、なんてカンジで、しかもその別バージョンてのは大抵オリジナルのアレンジとは全く違った形だったりして。「自分が好きになった曲だけ演奏します」なんて契約は絶対にしたくなかったから。それにもし自分が今後別なツアーで(ディランに)呼ばれたとして、そのツアーでは過去のアルバムの曲はやりません、て誰かが決めてしまうかも知れないでしょ。だったら最初から、何も知らないほうがいい、と思ってね。
——ディランの曲に、何かしら新しい解釈を持ち込もう、とは思わなかった?
MR:いや、むしろどんな解釈があるのかを学んだんだ。自分にとってはどっちにしろ「新曲」、フレッシュな曲だったから。レコードを聞き込んで、レコードと同じプレイを担当しよう、とか考える必要さえなかった。レコードを聞き込んで、大好きになってしまったら、その中のプレイをコピーしようとしちゃうでしょ、必然的に。他の方法を見つけることさえ困難になってしまう。だから僕は、そんなふうになるのを避けてみたんだ。
——ディランとは、別なツアーでも一緒にやる予定がある?
MR:いや、わからない。それはオファーがあってから、の話だから。
——もしオファーがあったら、参加する?
MR:もちろん。ディランのツアーに参加してた人達は、みんなホントにホントにいい人達ばかりで、一緒にいるだけで興奮するような人ばかりだしね。皆昼夜問わず、真夜中のパーティーでもいつでもどこでも一緒にいて、皆でジョークかましあって、皆で大笑いして、そんな素晴らしい時間を過ごせたんだ。最高だよ。だって知ってるでしょ? バンドがロードに出ると、沢山の人々が同行するわけだけど、大抵はその中の3〜4人がツルんで、他の3〜4人が別なグループ作って、更にあっちには別のカップルができて、あっちではひとりぼっちの寂しいやつがいて、みたいな事になるのが常、だから。
——皆が皆、一緒に帯同するってワケじゃないよね。
MR:変な話だよね。「御一行」なのに、皆一緒、てカンジじゃない。今回のローリング・サンダー・レビュー・ツアー程の大所帯ってわけでもないのにね。「ディラン御一行」は皆がホントに一緒に行動するんで、僕もビックリしたんだ。ホントにいい体験だった。満喫したよ。そう、だからもしオファーがあればまた参加するつもりだ。楽しいし、また更に多くのことを学習できる場だし。もっと曲も聞き込むこともできるだろうし、色んな曲のプレイを覚えることもできる。最高の機会だよ。
——ボウイと一緒だったときは、仕事じゃない時間でもボウイと一緒に行動した?
MR:ああ。クラブとかいろんな所にも一緒に行ったね。ディスコにも一緒に何度も行ったし、いろんな事で一緒に行動したし、いろいろ一緒に楽しんだよ。皆バラバラになって、それぞれ別行動でウロつくなんてことはなかったね。いつも一緒にツルんでた。これから出てくる新人のバンドにひと言アドバイスするとすれば、別々で行動するな、いつも一緒にいろ、ってことだね。だって、バンドのメンバーがひとりで飲み物を持ってどこかの角に座って、また別な遠くの角には同じバンドのもうひとりのメンバーが座ってるけど、互いのことは一瞥もしない、なんてシーンを、見たくはないでしょ? おやすみ、とかそんな言葉さえないとかね。一緒にいること、それは大事なことなんだよ。でも僕等は一緒にいたし、だから本当に楽しい体験をした。
——その体験は、ディランのローリング・サンダー・レビューでも似たような体験ができた、と?
MR:何が驚いたって、僕が今さっき言った事は、ツアーに参加したメンバー全員が異口同音に言ってた、ってことなんだ。皆カリフォルニアからきたとか、テキサスからきたとか、メキシコからとか、ニューヨークの人もいればイギリスの人もいれば、カナダの人もいる、っていうのに。20人とかそんな数じゃなくて、80人くらいのメンバーがバラバラの地域から集まってきて、ツアーの終わり頃には100人くらいの集団になってたんだけどね、本当にそんな大人数が、皆一緒になって行動したんだ。時たまロード・クルーもツアーに帯同するんで、全員がいつも常に同じ場所、1カ所に集合してる、ってワケじゃないけど、大抵は皆いつも一緒にいたね。バラバラで行動する必要ってのは、滅多になかった。でもミュージシャン、ミュージシャンに帯同する人、ロードマネージャーとかの人、クリス・オーデル(註:スーパー・グルーピーと呼ばれた、有名な女性。ミック・ジャガー、ボブ・ディラン、リンゴ・スター等多くのスター達のグルーピーをやっていた)、本当に皆いつも一緒にいたよ。えーと、どこまで喋ったっけ?
——ボウイの時代も、同じようにスタッフと連れ立って?
MR:そうそう。ボウイの時との違いは、今回はやたら大人数だったってこと。全てのミュージシャンは皆、エゴとかそういうのをそれぞれで持ってるモンだけど、それこそゲストも何もかも皆最初から一緒に行動するってこと。
——ミュージシャンは、何人くらいいたの?
MR:16人とか、そのくらいだったと思う。16人のミュージシャンそれぞれと一緒に演奏するだけで、その16人と話し合いしてるようなもんだよ。それぞれがキャリアを持ってるんだ。彼らと一緒にいれば、その各々のキャリアのバックにいた人々と一緒にいるような経験もできる。一緒にいるだけでどんどん良くなっていくんだ。最高じゃないか。部屋の中に足を踏み入れるだけで、10人くらいのアーティスト連中がいて、最高の時間を楽しめる、そんな経験なかなかできるモンじゃないだろ? しかも会話だって「あなたのアルバム、大好きです。本当に好きなんで……」とかそんな類いのものでは決してない、ていう。言ってる意味わかる?


※動画は、ロンソンのドキュメンタリー番組の一部で、ディランのローリング・サンダー・レビューに参加した時のロンソンを見る事ができます。また、インタビュー中に出てくるボビー・ニューワースの証言等もあります。この動画でロンソンが弾いてる白いレスポール・カスタムはレンタル使用していたギターで、同じギターをロンソンは76年夏にジョン・ケイル&ルー・リードのジョイント・ライヴにゲスト参加した際にも使用しています。
——わかるよ。
MR:そんなつまらない会話なんてしたくないでしょ。人は人なんだし、酒も飲むし、寝るし、ただそれを一緒にするってだけ。エゴを誇示したりなんて必要ないんだ。皆各々のエゴがあっても、別にわざわざそのエゴを剥き出しにして争う必要なんて一切ない。そのほうがいいでしょ。僕がツアーに出るのが好きなのは、そういう経験が仕事でもいい結果を生むって判ってるから。重要人物は、ボビー・ニューワース(註:ディランの友人でもあるSSW兼プロデューサーで、ローリング・サンダー・レビューにも参加)だったな。パーティーをやらせたら彼にかなう人物は他にいないね。人間的にもとってもいい人物。人が集まる場所で、何をやればいいかを知ってる人。何をやれば良くて、何がウケるか、そういう意味でとても頭の回転の早い人だった。物事を把握し、すぐに精通するっていう人でね。どんなシチュエーションでも彼が何かやれば、ウケるし上手くいく。素晴らしい人だよ。そんな彼がまとめ役になってたんだね。
——ディランと最初にやったライヴは、どんなカンジだったの?
MR:まずボビー・ニューワースと知り合いになって、彼が「ボブ・ディランがギタリストを探してる」と言ったんだ。最初はジョークだと思ってたんだ。だって僕は、ボブ・ディランのことを全然知らないし。でも彼が言うには、ディランがツアーをやる予定なんだけど、バンドのサウンドがオープンでルーズなんだ、と。最初は「何か僕は聞き間違いをしてるのかな? 何を言いたいのかなあ」と思ったんだよね。でも、そう、彼は僕に参加しないか、と言ってたんだ。すごく驚いたよ。
——それまでディランと同席してセッションしたりした経験は?
MR:いや、彼は「掛け合い」はしない。彼は歌を歌うだけ。曲中で短いソロを何度か織り込むようなプレイも好きだけどね。プレイヤーとの「掛け合い」のようなことはしないんだ。
——ディランとの共演では、いままでに演ったこともないようなプレイをしなければならなかったんじゃ?
MR:いや、そうでもないよ。僕はやりたいようにプレイしただけ。あ、でもいくつかカントリーっぽい奏法を勉強したけど。
——スライドなんかも演った?
MR:いや、やってない。今までやったこともない。好きじゃないんだよね。
——ディランの音楽には、スライドギターが似合いそうなモンだけど。
MR:たぶんそうなんだろうね。でも僕はスライドバーを使うのではなくて、エフェクトを使ったりしてそういう効果を狙おうとした。でも、言ってることはよく判るよ。スライドを借りてやってみれば良かったかもね。試してみようかなあ。色んな事をやるべきだ、と思ってるし。
——ローリング・サンダー・レビューでは、フェンダーの小さなアンプを使ったの?
MR:そう。バンドにはデヴィッド・マンスフィールドっていうペダルスティールのプレイヤーもいたんだんだけど。それはともかく、もし僕がギターでソロノートをプレイしたら、それはスライドギターの音みたいに聴こえると思ったんだ。ファズでも踏めば、エレキギターの音だってわかるんだけど。ファズでそんなサウンドを出したら最高だと思って。リードギターでね。
——ディランはイアン・ハンターとは面識がある?
MR:ああ、初めてディランと会ったとき、僕はイアンと一緒にいたから。その場にはボビー・ニューワースもいた。6月か、7月の頭だったな。


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